天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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第五章 漁業組合の発展 一九、燃油

一九、燃油

燃油
和船から動力船になり、欠くことのできなくなったのが燃油である。使用した油も焼玉の初期は軽油を、後期はA重油を、戦時中や戦後はBC重油と思われるものをヤミ買いなどで利用した。最近では、豊かで安い油があると安心していたら、価格や供給の面でも大嵐が吹きはじめた。漁民と油はいつも切り離せない問題である。以下、油の歴史をたどってみる。
大正期の動力船は、有水焼玉であったから、燃料は軽油であった。しかし、その隻数は少なく、機関も小馬力であるから、油の消費量も限られたものだった。当時、帆船による運搬業が勝本浦に数軒あり、その船などによって福岡方面より購入していたといわれている。
昭和期になると、昭和二年には四〇隻位であった動力船も、飼付の影響などにより、七年には九〇隻と増加した。この頃は、雑貨商の片手間に石油を扱う店が数軒あり、たとえば、黒瀬の平田商店、琴平の牧山船具店、田間の川村商店や正村の原田商店などがあった。重油は一缶売り(一八㍑)であり、缶入りを買うと缶代が高くつくので中身だけである。注文を取るとき空缶を集めて回り、リヤカーで配達していた店もあった。重油の質も、小型馬力が殆どであるから、良質のものを使っていた。潤滑油はBマシンであるが、これは缶入りであった。
昭和六、七年ごろ、増え続ける需要にこたえてできたのが、正村の原田石油店の二五㌧タンクである。弁天様のうしろに据えられた二五㌧タンクは、巨大で頼もしい姿であった。このタンクは彦島で作り、船に積んで来たが荷上げに困った。そこで、海上に浮かして曳きあげたという。油の取引き先は出光石油で、小型のタンク船が来てタンクに入れた。この頃の石油は、A重油三に対し、上質油(ミリーといった)を七の割りで使ったようである。昭和五年からの飼付時代には、飼付組合から油の現物を支給したわけではなく、油代として現金を各船に渡し、各自買いつけの店から購入した。
昭和一三年三月、漁業組合で、石油の共同購買事業を企画し、原田石油店と交渉して、仲折の石油部を引き継ぎ、今日に至っている(以下、漁業組合の項参照)。

配給制度
組合が石油の購買事業を開始した昭和一三年五月といえば、支那事変がはじまって約一年、戦火はますます拡大の一途を辿りつつあり、やがて油も配給制となったのである(石油配給は昭和一三年、ガソリン、重油が割当切符制になった)。
①戦時中、石油は血の一滴といわれる程の貴重品であったが、国民の重要な蛋白源をまかなう水産業には、たとえ量は少なくとも配給はあった。最後には、配給があやしくなったけれど、漁民は食わんがために、足りない分をヤミ(闇)で買い求めて、漁に出たのである。
②太平洋戦争に備えて、日本が二年分として用意した石油は、八〇〇万㌔㍑とも、六八三万㌔㍑ともいわれる。この量を今日の消費量と比較してみると一目瞭然で、昭和四六年ごろの三日分にすぎない。
③昭和一二年(一九三七)の日支事変から軍需生産の拡大で、一般消費材の輸入や生産がおさえられ、物資需給の統制が全般におこなわれた。昭和一三年三月には綿糸配給規制が公布され、同一四年には電力調整令が公布された。生活必需品では、一五年六月、六大都市の砂糖、マッチの切符制、一六年四月、米穀配給制が実施され、さらに味噌、醤油も配給となった。一七年二月には衣料総合切符制が実施され、日用品から生産資材にいたる殆どが、切符制となった。しかし、物資の絶対的不足を前提とするこの制度は、必然的に間販売を伴いさまざまの不正を生んだ。国民は間価の高騰と物資不足におちいり、空襲下では、配給さえおこなわれず生活に苦しんだ。
④食堂から米が消えた。それは米の配給制というつぎのより深刻な事態の前ぶれであった。昭和一六年四月、まず六大都市で米が配給になり、一七年三月までに全国に拡大された。配給される米は、普通の大人で一日二合三勺であった。副食が充分にあった戦前、日本人は中程度の労働者で、米を一日三合三勺食べていた。配給はこの四分の三であった。
⑤勝本町でも米の配給がはじまったが、なんと配給量は一人一日一合三勺であった。漁民の仕事は重労働であるにもかかわらず、他町の半分であった。なぜかわからないが、ブツブツと文句をいい合いながらも、我慢したのであった。食べものの恨みは恐ろしいというが、いまだに忘れられない腹だたしい事である。

荷ない
荷ない・担いなどと書く。道路が舗装されない以前の勝本浦の漁家では、すべての物を運ぶ手段として、六尺棒や荷ない棒などを使って荷なっていたのである。
毎日の生活に必要な水汲み、組合への漁獲物の出荷もテボ(一〇〇斤テボ、風袋テボといい竹製)に入れて、二人で荷なった。一〇〇斤(六〇㌔)は重かった。仲折の購買部に油を取りに行くのも、大事な荷ない仕事であった。遠い塩谷や東部地区では、船で運んだようである。普通一人で両方に荷をつけて荷なう(一荷という)が、二人で一箇のものを、荷なうのを片荷ないといった。薪などの枯木を取って運ぶのは、背中にくくりつけるから、荷なうとはいわず「からう」といっていた。
上水道普及以前(昭和三六年完成)の勝本浦では、水汲みは欠かせない毎日の仕事で、家族の誰かがしなければならない重労働であった(賃金を払って、汲んでもらった家もあった)。主婦が健康であれば女の仕事で済むが、弱いと子供や亭主が代って汲まねばならなかった。当時、子供でも小学校の四、五年生になると、一荷の水を荷なっていた。このころ水一荷の基準は、一八㍑入りの石油缶であった。主にマシン油の空缶を利用したものである(ワラなどを燃やして油気を取り、エナメルを塗り、下げるための木を付ける)。木製の桶もあったが、桶は缶にくらべ重かった。それに大きい桶は水が多く入るから、町内井戸で配給のときは缶の分量しか認めてもらえず、しるしをつけた町内もあった。これらを「タゴ」と呼んでいた。勝本浦の水の分布は不公平で、東部に多く西部は極端に少なかった。それで西部の人々は長い道のりを運ばねばならなかった。
現在では道も良く、漁獲物運びなどもリヤカーやゴロゴロ(乳母車の形の台車、少量の運搬に便利)を利用するから楽である。昔は、デコボコ道であったしリヤカーなどは貴重品であるから、潮気のものなど積まなかったようである。

油とり
戦中から戦後にかけて、配給の油は弁天様の傍にある石油部に取りに行った。水を汲み馴れた体にはさほど辛いことではなかった。油は水に浮くから、水より大分軽いと言われたものであるが、実際にその重さを計ったことがないから判らないが結構重たいものであった。油を荷なったとき、これで何日間漁に出られるといった計算とよろこびの方が強いようであった。

計量器
このころ石油部に油をとりに行くと、足のついた鉄製の箱型の計量器が据えてあった。中仕切りがあって、一缶ずつ一度に二缶の油が入るようになっていた。仕切りをこえると余分の油は(手動でバルブを開閉するので、そのようなことは殆どなかったが……)戻しパイプを伝って油たまりに落ちるようになっていた。そして計量器の下の出口に空缶を二缶置き、くさりを引いて弁を開けると油は落ちて缶に入るのである。

石油裏ばなし
〈マシン混燃〉支那事変がすすみ、そろそろ油事情も窮屈になり出したころ、潤滑油であるマシンはふしぎに入手が容易であった。仕方なくマシンを重油に混入して使ったことがある。マシンは使用上の必要から引火点が低いといわれるが、大型(一二馬力)であるため、何割か混ぜて使うと機械が軽く良く回るのである。燃料代が高くなるが漁を休むよりましである。数十缶のマシンを買い込み使ったがこれも一時期のことで、あとは入手が困難になった。
〈油の節約〉戦争が激化するにつれて、油の配給も少なくヤミで買わないと漁に出られなくなった。当然、少ない油を有効に使うために苦心した。現在の省エネルギーの戦時版というところであろう。しかし、この頃はこんなハイカラな言葉もなかったし、今日みたいに泰平の世ではなかった。生きるためにみんな必死の時代であった。
当時、勝本漁船の大型は一二馬力で、油の消費量も当然多かった。その一二馬力で七里ヶ曾根まで、片道二時間のハンドルで回し往復一缶であった。平曾根操業は一日中で大体一缶であるし、曾根の曳繩で一日中「間切る」と三缶位であった。また、この頃の漁法は漁場につくとあまり走らずブリの方から泳いでくるのを待ったし、かかり操業も良く行なった。出入港時、追手の風であればこの風を利用して一寸でも大きい帆をかけて走り油の節約に努めた。このことは戦後も続いた。西風が少しあるようなとき、曾根から昔の潮帆をまいて帆だけで帰ると、三時間もあれば充分仲江に着くようである。
春先など漁もようの悪いときは、本船は繋ぎ、小船から平曾根、ナンカケのブリ釣りに行く人もあった。こんなにしても油は足りず、あの手この手で油の確保に懸命であった。油の一滴は血の一滴といわれたが、まさにその通りの状態だったのである。
〈闇(やみ)油〉油のヤミといっても商売ではなく、生活のために船を動かし魚をとるだけのささやかなものであった。それに戦時中は、多額の戦時国債の割り当てが町内会(隣組、常会)にあり、船持ちや親子働きには特配があった。町内事情により多少の違いはあっただろうが、とにかく漁は休まれなかった。
統制の厳しいなかではあったが、有難いことに、勝本港にはいつも朝鮮通いの機帆船がワンサと入港していた。主に、竹や石炭を運ぶ船であったが、これらの船は勝本漁民の助けの神様であった。夜が更けてから油を買いに伝馬船でこっそり機帆船を回るのである。主に、冬期の寒い日が多かった。これらの船の乗組員は韓国の人が多く、冬季だと船内に石炭ストーブをあかあかとたき、暖かいので話し込むのに都合が良かった。相手も船乗りのこと故、「アルコール類を持って来い」との要求が強かった。しかし当時は、酒や焼酎は薬にひとしかったし、なるべく金で売ってくれるよう話し合うのである。交渉がまとまり買って帰るときの嬉しさは格別のものであった。
しかし、一回に買えるのはせいぜい二~三缶ぐらいであり、数でこなす必要があった。
ヤミ重油の最も高い相場は、平曾根で釣れる一貫ブリ(三・五㌔)と重油一缶を交換することであった。いつの間にかこのような相場ができたのである。現在(昭和五四年)の値にすると、二五〇〇円から三〇〇〇円ぐらいの油ということになる。それでも無いよりはるかに良く、四、五本の小ブリを持って夜中に回るのである。この交渉はわりと容易であった。交渉が成立し、やれ嬉しやと小ブリを機帆船にあげるとき、手がすべってブリを海中に落すといった失敗もあった。
またほかの町や博多へ行き、縁故や伝手(つて)で買い回ったこともあった。ある時は、深夜、印通寺から勝本まで、ただ一人でマシンを一缶背負って歩いて来た船頭があった。当時の武勇伝としてみな驚いたこともあった。
〈固形物・石油〉苦心して買い求めた油も夏は問題はなかったが、冬期になると寒天を固めたように固形物と化するのである。このような油で機械を回すのであるから、機関士は苦労した。出漁予定の半時間前から、木炭(火持ちのする対州炭で)で暖め、油を溶かさないと油が出てこないのである。
ようやく機械をかけ港を出ても、はじめのうちは機械が調子よく回転しないのには閉口した。クラッチ片手に仲江を過ぎるまで、機械をとめないよう苦心したものである。やがて、機械もぬくもり調子も良くなるが、油の方も熱気とガブリのために次第に溶けるのであった。このような事のくり返しであるから、必要な油は出漁時に機械場などに入れておき、帰港後にタンクに入れるのであった。
〈人造石油〉ある夜のことである。機帆船との交渉もすぐまとまり、油を二缶売ってくれるという。いつもは機関室の油タンクから空缶に入れてくれるが、この時は船上の物入れから出してくれた。真暗間の中、缶入りとは珍しく、手ざわりから缶も新缶のようであるし、振ってみると「ガボガボ」と軽油みたいな音がする。これは掘出しものだと、心中喜びながら帰ったのである。ところが開けてびっくり、なんと赤黒い油で、おまけに変な臭いがするのであった。後日聞くと人造油であった。これではフカセ(焼玉を暖めるための油)にはなりそうにないし、結局、着火船なら、どうにか混ぜて使えるとのことで、重油と物々交換したのであった。
この人造石油は、石炭からつくられるらしいが、真偽のほどはわからない。人造石油との出会いははじめてであった。
〈油のゲップ〉原油みたいな質の悪い油を使うので機械のトラブルが絶えなかった。石油ポンプにエアー(空気)が入ったり、上下のバルブ(デリベリ、サクション)が作動しなかったり、ノズルがつまったりするのである。繋船中の故障だと気もあせらないが、岸辺に近いとか、ブリ釣りの最中だと急がねばならない。空気抜きのためには、他の方法より口で吸うのが手っ取り早い。強く吸うと口一杯に入ることがある。すぐに吐きだすが口をゆすぐ間も無く仕事を続けた。しばらくするとサイダーやラムネを飲んだときのように、油のゲップが出るのである。このようなことは、当時の機関士には日常茶飯事であった。しかし、誰いうとなく「石油は、肺病の薬だから、機関士は肺病にはならない」というのでそれだけは心強く思ったことである。
〈油の良否〉戦後、軽油などを分けてもらうとき、その油の良否を見分ける目安として、油を指につけてなめてみるのである。舌をさすような辛味があれば悪い油、なんともないのが普通の油である。
〈半回転〉この頃の焼玉に半回転があった。主に大型馬力であるがその名の如く、半回転で一回転しないのである。なんとか回転させようと努めるが駄目である。油に不純物が多く、ガスがつきやすいのと、爆発力が弱いからといわれ、いろいろの対策が考えられた。内容積の変更や、石油噴射時期の調整などである。その中で、一番良かったのはガス掃除を急ぐことであった。
戦後の油では、軽油が悪く、一時期、着火機関のピストンとシリンダーの間にガスがつき、ピストンが全く動かなくなるという珍しい故障があった。これも、ピストンを叩き出して掃除するより方法はなかった。いずれも油のためにおこる機械故障であった。
ヤミ買いのために、船回りをしていて困ることがあった。これらの船の船員達が、大声で卑猥な唄を歌うことである。「皿やどんぶり鉢やー落せば割れる、娘十八……」といったような文句が多かった。親子や伯父甥でいった場合、目のやり場に困り、なんともいやなことであった。

漁民の油は漁民で
戦争も末期に近づいたころ、政府は「漁民の油は、漁民で運ぼう」と叫び、南方行きの要員を募集したことがあった。愛国心と愛郷心に訴えたのである。
当時、外地と日本を往復する油送船の殆どが、米国潜水艦と飛行機に襲われて沈んでいた。そこで、あり余る南方の資源を、どうして内地に運ぼうかと、苦心惨憺(さんたん)していたのである。石油などは、途方もない大きなゴム袋を作り、その中に石油をつめて北上する黒潮と共に流し、日本に届けようと実験したこともあった。しかしこの方法も成功しなかった。
そこで少しでも船に馴れた漁民を集め油送船の船員として、急場を間に合わせようという計画が考えられた。また同じ頃、漁業に従事していた漁民を徴用して訓練し、唐津―大連間を無動力で航海していた中国のジャンク船の船長にしたことでもわかる(勝本からも数名参加)。
壱岐でも、噂などで、この南方行きの計画が危険であること、命がけの仕事であることはわかっていた。
しかし運ぶことに成功すれば、出身地の漁民に特配があるという。お国のためになり、そのうえ郷土のためにもなるのである。この特攻隊にも等しい命がけの仕事に、勝本からも何人か参加したのであった。だがこの人達は、戦争が済んでも帰っては来なかった。国民のために、尊い命を捧げたのである。

アメリカ油
戦後はじめてヤミで入手したアメリカ重油なるものが、なんと、今迄使っていた軽油より色も白く、サラサラしたものでびっくりした。
このころ、湯ノ本湾に、油を満載した米国の船が事故のために入港したことがあった。この情報は、たちまち浦中に知れ渡り大挙して押しかけたのである。船員は日本人だったというから、戦後、二、三年のころであったかも知れない。積荷は軽油で、これをドラム缶で買った人、一、二缶を、ようやく入手した人とさまざまであった。しかし、大量に買った人は警察に呼ばれて、没収されたりした。農家の人は芋などと交換して、山や畑を深く掘り隠したという。この油を、また漁師に売るのである。この軽油を着火に使うと、始動時のガソリンから軽油にすぐかわるし、機械が驚くほど回るのである。
戦時中開発された日本軍用機を、戦後、米国に持ち帰り、マグネットを替え、油を抜きとり、アメリカの油を入れて飛んだところ、日本で発表されていた性能を、はるかに越える力を出したという。このことからいかに戦時中の油が不良品であったかが判るのである。

油泥棒
苦労して買い求めた貴重な油を、泥棒する憎い奴が現われたのも戦後のことである。普通、船の油は出漁に備えて前日に予定量を積んでいる。このころ石油タンクの内容量が外から判るガラス管などを付けたものは皆無といってよく、上から尺竹で量っていたのであった。
夜中に油を抜かれると、調べ直さない限り判らなかった。安心して出漁し途中で機械がとまり、はじめてタンクの油が無いのに気付くのである。陸上とちがい海上では、機械のとまる場所や天候などによっては、命がけの場合も生ずるから恐しいことであった。また、船に積んだモビルや揮発油も一升瓶ごと持って行かれることも度々で、以後は出漁前に調べるように




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社