天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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第五章 漁業組合の発展 二〇、船の備品

二〇、船の備品

潮帆(しおぼ)
潮帆また海帆(うんぼ)は、海中に丈夫な綿布で作った四角な帆を入れて、船を風に立てて潮の流れとともに流す道具である。
夜釣りの項にある亀十さんの例でもわかるように、明治一〇年頃には「くびり石」をぶら下げて流していた。また和船の項にあるように、夜半に大風にでもなると一晩中でも櫓で「ねらえ」ていたという。タイ一本釣りでも一人がねらえて釣っていたといわれているから、潮帆が普及したのはそう古いことではなく、やはり動力船になってからのものであろう。使いはじめの頃は、竹を細く割って編んだ竹簀のような竹製潮帆を使ったともいわれる。これは戦後の代用品時代に、小型の着火船に使用しているのを見かけたぐらいであった。

綿布製
焼玉時代から現在のパラシュートにかわるまで使われたのが綿布製の潮帆であった。その大きさは自分の船に合わせて決める。幅より縦の方が長目であった。幅はだいたい自船の胴の間ぐらいであった(おもてからカケ出しまでの四分の一ぐらいであろうか)。
仕立ては、やはり一針ずつていねいに縫ったものが丈夫であった。ふちどりは丈夫なロープを用い、少し「ゆさり」(たるみ)を入れる。これは海中でのききをよくするためである。
上と下に一本ずつ丈夫な竹の横げたを入れて両端にハナオをくくり、その先に上綱と下綱をつける。風の強いときは下網を丈夫にする。重し用の石は、下(した)げたの真ん中に一個か、両端に二個つける。上(うわ)げたの中心に樽の綱を結ぶ。この綱を加減して潮帆を浅めたり深めたりする。晩イカ取りでは浅く、タイ一本釣りなどでは深める。下綱は、普通二〇尋ぐらいのばす(樽綱六、七尋で)。一ぼう(綱の単位)三〇尋の綱を上、下二ぼう使う。潮帆は、上綱をきかせると、潮を切る状態になるので、下綱をきかせ、上綱は少しゆるめ加減にする。下にシャギリ込むようにすることが大事であった。近くにいる船同士が流れついたときは、どちらか一隻が上綱を引いて(潮帆を切らせて)船を下げてかわすことになっている。
飼付時代と思われるが、大型船用(七~八㌧)の潮帆を作るとき、あまりききすぎるからと帆の中心に四角な小穴をあけたといわれる。後年、この穴をふさいだものをみかけたものである。それに大型船では、重し用として大石を使わねばならず、潮帆あげには苦労したという。老船頭などが一人で夏イカ取りにいくような場合、潮帆あげはつらい仕事であるから、タンポ流し(風横流し)であったという。
また潮帆は、対馬のイカ取りなどで船住いするときのテントとして使ったし、燃油節約のための助走用の帆(下んだりだけ)にも使った。昔の袋帆といわれるものが、この潮帆のような形のものであったのかも知れない。

唐米袋
綿布が入手難となった頃、登場したのが唐米袋である。ドンゴロスともいわれ、輸入米や豆類が入っていた袋で、これだけは豊富にあった。この袋をほどいて何枚も縫い合せて潮帆を作った。新品だとわりに丈夫で水を吸収するから、海中に入れると重くなりききがよかった。それに材料代が安かった。難をいえば、船上にあげるとき重くてあげにくいこと、雨降りのテントなどに使えないこと、それに長持ちしないので毎年作り直さねばならないことなどであった。

パラアンカー
パラシュートアンカーを略して、パラアンカーまたは落下傘潮帆とよんでいる。
昭和一七年一月一一日敵地セレベス島のメナドに初降下した海軍の落下傘部隊は、空の神兵として有名である(陸軍の落下傘部隊が降下したのは同二月一四日スマトラ島パレンバンである)。これは昭和一五年一一月から準備に入り、落下傘の改良、隊員の訓練と血のにじむ努力を続けた結果といわれる。しかし戦争も後半になると、連合軍側は飛行機による物資補給にパラシュートを惜しげもなく使いはじめたのである。
このように軍事用として開発されたパラシュートも、日本では天然の絹から作った羽(は)二(ぶた)重(え)を用いていた。一方連合国ではいち早くナイロン製(曳縄、合成の項参照)のものを作りはじめた。戦後になっても連合軍は訓練用として人や物を降下させていたが、物資用は赤白の落下傘を使っていた。これの払下げ品が五~六尋の船用として使われたのである。
落下傘潮帆の導入=勝本には、昭和四二年頃、赤白の落下傘潮帆一二、一四、一六型というものを漁連から持ってきて、その指導を受けたのがはじまりであった。それ以後次第に普及していった。従来のものとくらべ、手軽に扱えてききがよく(予想外だったのは落下傘が海中で開くときは船が傾くほどよくきくということであった)、あげるときは上綱を引っ張ると一本の棒状になるから軽かった。またナイロン製品であるから干す手間も省ける、と評判がよくたちまち普及したようである。
パラアンカーで困ることは、悪潮(あくしお)に入ったとき船がグルグル回りと紐がもつれてとけないことである。また、あげるとき油断すると、長い紐をペラに巻くことがあった。紐の数が多いので泳がないとはずれないのである。この他イルカが来て傘の部分を食い切ってしまい、大損害を受けることがある。また考えようによっては、このような便利なものが出現したので、一〇〇㌧―三〇〇㌧型の大型船でもマメイカ取りが可能になったのである。そしてその結果イカ資源の枯渇につながる三大原因の一つになったといわれている(三大原因とは、パラアンカー、自動イカ釣り機、発電機による大集魚灯である)。

トモ帆
トモ帆は、和船には必要としないから、当然動力船になってからのものであろう。勝本では、その形から蝶々帆と呼んできた。風を受けやすいようにゆさりを入れ、二枚の帆を開きかげんにして使ったから、絶えず前進させねばならなかった。また舵をいちいち抜いて船上にあげるか「横がみ」にかけるかのどちらかにしていた。以前では、主に昼イカ取りに使ったものである。しかし戦後になると、このトモ帆も改良され使いやすくなった。
トモ帆の作り方=昼イカ取り、生バエなど、近年ではトモ帆の使用もその重要度を増して来た。だが勝本では作り方が種々雑多で、せっかく作られた帆も作り方が悪いため使用に不便を感じている人を多く見かけた。
出漁した場合は、一本でも多く獲りたいのが人情である。よいトモ帆の作り方を『漁村』より紹介する。
同じ形の帆を二枚作り、帆柱部分(前部)を縫い合せ後部を両舷に開いて同じように風を受け、船を時々前進させ風にねらえるのを目的とする帆である。
トモ帆の大きさは、漁船の大きさに合せて作るので船の肩巾が基準となる。肩幅一〇尺の漁船の例を示すと、柱付(上下の長さ、帆柱の部分)即ち肩幅であるから一〇尺の長さ。上桁は八割で八尺。下桁は一二割で一二尺。このような算出方法で定めるのであるが、実際使用上便利にするために、上桁は、三〇―四〇度に角度を上げて八尺計る。下桁は、すそを柱付より一割(一尺)上げとして帆の仕上りとする。
上桁を上げるのは、帆の張りをよくするためであるから角度は三〇―四〇度のいずれでも良く、下桁を少し上げるのも操業上便利にするためである。このようにして同型の帆を二枚作り柱付けの部分を縫い合せる。そして上、下の桁はしはU字型に結び合わせて柱に取付ける。後の部分と下方は開き放しにする。取付ける時は、常に帆がたるまないようにパリッと張るように装着しなければならない。
帆柱の位置は、なるべく船尾寄りがよく、必ずしも中心に立てる必要はない。また下桁の位置は船室の高さによって加減をするとよい。
トモ帆の使用法=舵を上げないトモ帆の使用法としては、保戸島船など他県船が行なっている方法で舵をぬく手間がはぶける。
とも帆は「ゆさり」はいらない。両端の引っ張りは「かいせんぐ」には取らず、帆のひらきより少しひらき加減ぐらいまでせばめる。また、帆が開かぬように二枚の帆をよまで結ぶ。その間隔も従来よりせばめる。これだけすることにより、たいていの風まで舵はぬかずに船は風に立つ。

羅針盤
いうまでもなく羅針盤は、船乗りや漁民にとって欠くことのできない大切な航海用具であり、濃霧、雨天、暗夜に、正しい方角を知ることの出来る唯一のものである。
勝本の漁民がいつ頃から羅針盤を使っていたのか不明である。しかし鯨組や南蛮貿易の拠点平戸藩の領内にあったことから、かなり昔から方針(ほうばり)を使っていたのではないだろうか。この方針には、写真や図のように十二支が右回りの本針(ほんばり)と、左回りの逆針(さかばり)の二種があった。
当初は本針を使用していたが、その後改良された逆針を使用してみると、航海上とても便利なため主としてこれを用いた。
〈本針の使用法〉 まず自分の航走する方位を判定する。次に目標方位の干支(えと)を船首尾線にあわせ、転向しながら磁針が子(ね)(北)のけんを指すと、自分の求めた方向に正しく航走針することができる。
〈逆針の使用法〉 逆針は本針と異なり、子(ね)のけんを船首尾線にすえ、自分の判定方位に指針するまで転向して進路を定め航走する。一例をあげると、対馬黒島沖で操業して帰港する場合、若宮灯台の方位を午(うま)(南)と判定する。船首を転向しながら磁針が午(うま)を指すと、正しく若宮灯台へ向いているため、迷わず航走できるのである。逆針は前述したように、文字盤の十二支が逆回りになっていることから、この呼び名がついたのであろう。昔から反対のことばかりいう人や親に逆らう者を「逆針つかう」といった。

コンパス
大正期と思われるが、磁針を方向盤(円盤)に固定してアルコールなどの混合液に浮かし、上部をガラスで密閉し、縦、横などの揺れがあっても方向盤は安定したままという新型の羅針盤が普及した。
方針のように手に持つこともいらず自分の目的方位をコンパス内の船首尾線に合せて船を進めればよく、たいへん使いやすいので航海も楽になった。これを漁民はコンパスと呼んでいる。
コンパスも安ものを買うと空気が入りやすく、空気が入ると狂いがくるから注意が必要である(コンパスを使用するときは船の中心線とコンパスの船首尾線を必ず合せること)。
戦後あらたに船を購入した船主などはコンパスを買いたくてもなかった。対馬の船具店などを探してどうにか入手出来ても数年で狂いがくるという戦時中の劣悪品であることから、昔の方針を探して来て使ったものである。
ところで、方針も初期のコンパスも日本人なじみの干支(十二支)入りであった。船は四ツ足類を嫌うからもちろん字はかえてあった。鼠、牛、虎とは書かず子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥である。コンパスは当然度数と英字で書いてある。
悪天候のなかで航海すると必ず襲う不安は目的地に向って正しく走っているだろうか、コンパスが狂ってはいないだろうかということである。日頃よく使い慣れて自分のコンパスの偏角を知っておくと共に、自分のコンパスを信用して走ることがなにより大切である。現在ではビーコン、ロラン、レーダー、無電などと共に使うから迷うことも少ない。しかしこのような便利な機器があり、そしてジャイロコンパスさらに人工衛星による航法が発達しても磁気コンパスを頼りに航海している船が多い。磁気コンパスは安価で確実性が高いという特徴があるからである。

偏角
磁針が真の南北を指さないということは一一世紀末の文献の中にみられる。磁気コンパスの真北からのかたよりの角は偏角とよばれ、一九六九年現在で東京付近では六・三度西にかたよっているという。
一四九二年コロンブスは大西洋を横断し西インド諸島のサン・サルバドルに到着した。コロンブスがアメリカ大陸を発見したことは誰れでも知っているが、大西洋横断の際に磁石のさす方向が場所によって異ることが発見されたということはあまり知られていない。
大西洋を西へ航海するに従いはじめ真北より東へかたよっていた磁気コンパスが、次第に真北に近い方位をとるようになり北緯二八度、西経二八度の海上で磁針の方位が東北から西北に移り変ったという。
はじめは偏角の現象は何かの誤差のために起こるのだと思われていたらしい。昔は磁針をつくる場合に天然磁石で磁針をこすって磁針に磁性を与えていた。このとき場合によって異った磁性が与えられてしまうと考えたり、真北の決定に誤差があるのだと考えて磁針そのものは本来南北を指すものと考えたのである。しかし偏角の現象は誤差ではなく一般的なことがらである、ということが次第に認識されるようになり一五世紀ごろには偏角を補正した磁気コンパスがつくられるようになった。
一六世紀になると、ヨーロッパ各地で偏角の値が明らかになってきた。地磁気の偏角が場所によってちがうことがわかってくると、航海の安全のためには、正確な偏角分布を知る必要があることが認識されるようになった。ハレー彗星で有名なイギリスの天文学者ハレーは、大西洋海域の偏角測定を行い、一七〇二年(元禄一五)に全世界にわたる偏角の磁気図を発表した。
我が国では、北海道と九州とでは偏角が四度あまりもちがう。最近では国土地理院発行の五万分の一地図などにも偏角の値が示されるようになったし、航海に使われる海図には必ず偏角が示されている。

磁石をつくる
磁石は天然石のほかに、鉄片を赤く熱して南北方向に置いて冷やすと磁石となる。このことは一四、五世紀ごろまでには知られていたらしい。東西に置くと弱い磁性をもつがその力は問題にならない。つまり磁石の性質を持つには、南北方向のある程度の長さが必要というわけである。また冷却中ハンマーでたたくと磁性が強くなる。ということも経験的に知られていたようである。鉄棒を自然のままに南北方向に長い間放置しておくと、磁性をおびることなども昔から知られていたようであり、昔の人の知識はたいしたものといえる。

マイクロ波ビーコン受信機
マイクロ波ビーコン受信機は、ビーコン局からの方位信号を受信して、自船の位置および航路の確認を行う装置でラジオ放送の受信も可能である。ビーコンの利用方法=対馬にはビーコン局が三局ありそれぞれ赤、青局と呼ばれている。受信機には「局色別および方位信号」が赤、青局の順に受信され(海域によっては三局受信できる所と二局受信できる所がある)、その音の一番大きく聞えた時の角度が自船の方位である。赤、黒、青局のいずれか二局からの方位が解ったならば、ビーコンチャートより自船の位置を求める。もし聞き損じた場合は受信を継続すれば再び方位が受信出来る。以上であるがこの受信機は最近つくられたものである。音声によって船の位置を知らせる。特に対馬西海岸に三か所設置、常時発信されている。右記したようにこの受信機があれば、船の位置が正確に確認される。なお専管規制水域で操業の際、特に効力があるように増設されたものである。
(昭和四一年一〇月『すなどり』より)

無線方位信号所の利用方法
若宮回転式ビーコン=無線方位信号所の業務は中波無線業務であって無線設備を持たない小型船舶のために無指向性標識電波を方向探知機を備えた船舶のために発射している。
これを「回転無線標識」といいこの利用方法について説明する。
まず測定に必要な機械として二八五KCが聴取できる受信機で、これを用意する。受信機のスイッチを入れダイヤルを三〇KCに合わせると定められた発射時間にNU・NU(―…―)の標識符号二回、A(・―)の始動符号二回に続きポポポポポポポポポピポポポ……(短点符号一〇〇回―一分間五回反復)という電波が聞える。ピというのは数えやすくするために一〇回目毎に音を高くしたものである。これが回転式無線標識の電波で短点の音が聞えなくなったり、又は最も小さくなった時までの数をかぞえて測定する。第八回目の短点(ポ)が聞えなくなった場合、短点は〇〇二度から二分毎に時計方向に回転しながら二一〇度まで発射されるので、この場合船の方位は無線方位信号所から八×二度=一六度となる。
しかし無線方位信号所は岬の上とか島などにあるので付近の地形や建物に影響され、この計算による方位は大略の方位ということになるので正確を期するために「方位補正表」によらなければならない。
なおこの補正表は実際に船を走らせてみた結果から出たもので正確である。
次に注意すべき点は、
一、有効距離=昼間一〇〇キロメートル―二〇〇キロメートル夜間五〇キロメートルとしているが夜間でも数回測って平均をとれば昼間程度の距離まで利用できる。
二、自動音量調整回路(AVC)のある受信機は必ずその回路を切っておかなければ消音しないことがある(また音量を大きくすると消音点がつかみにくいので適度の音量に加減して聞くこと)。
三、短点がはっきり消音しない場合は、比較的小さい音の中心をとって方位を定めること。
四、一標識だけの測定では方位だけしかわからないので位置を出す場合には、付近のもう一つの標識局の方位を同じ方法で測定し海図に記入すればその交点が船の位置となる。

レーダーの生い立ち
レーダー発祥の地は英国である。昭和一〇年(一九三四年)ワットソン・ワットがテレビジョンの実験中、よく像が二重にずれて写る現像を発見した。あまりしばしば起るので、いろいろ原因を調査してみると、送信所と受信地点の中間に飛行場があり、飛行機が舞い上って飛んでいる時に限って像がずれることがわかった。これは直接来る電波と飛行機で反射されて来る電波とが混る為に像がずれるのであって、このとき初めて飛行機による電波の反射作用が判った。そこで、当時すでに研究されつつあった高空電離層の測定装置を利用して、飛行機を探知して見ようと思い立って研究を始めたのがそもそもの初めである。そしてワットは、実際に簡単な電探を作ったのである。その後英国での進歩はめざましく昭和一六年にドイツから入った情報によると、英本土海岸にレーダーをずらりと並べて、ドイツ飛行場からとび立つ飛行機を一機残らず探知していたというからたいしたものであった(これに使用したアンテナは、わが国の八木秀次博士の発明した八木アンテナであり日本ではまだ実用しておらず、敵国において先に使われ出したとは皮肉であった)。
日本ではどうかというと昭和五年ごろ、こういう着想を兵器にしようという試みはあったようであるが、正式には取り上げられなかった。昭和一二年には、海軍で電波利用の測距儀(敵艦までの距離を計る装置)を作ろうとしたがこれもものにならなかった。本格的に研究を始めたのは、昭和一六年春、海軍の技術将校が欧州視察を行なった際、新兵器の神秘的能力に驚き、ドイツから長文の電報を日本に打電して来たときに始まるといわれる。それから海軍では、技術将校などが一致団結して技術者を集め、古いデータを探すやら、民間会社に呼びかけるやらで、一二月八日の開戦にはどうにか陸上用の対空見張レーダーを一台持つことができたという。

船舶用レーダー
レーダーとは、レーディオ デテクティング アンド レンジングの頭文字を取ったもので電波によって目標を探知し、かつその位置測定を行うものとされている。現在船舶用レーダーとして最も広く使用されているのはPPI方式のものである。これは映像が海図のように現われるので、陸上物標や他船との関係位置、距離、方向などがきわめて容易に知られるのである。

魚群探知機
水中超音波を利用して海中の魚群の存在を探知する機器で簡単に魚探ともいう。その原理は、現在航空機あるいは船舶で用いられているレーダー(電波探知機)のそれとよく似ている。すなわち、超音波のパルスを水中に放射してやり、魚群からの反射波を検知することによってその存在を知ると同時に、その反射波がもどってくるまでの時間を測って、魚群までの距離を知るものである。
山彦のように音は物にあたると、反射してかえってくる。これを利用応用したのが、魚群探知機である。

魚群探知機は魚に影響するか
昭和三一年研究組合先達船に魚探を積んで使用したところ、魚探のために魚群が逃げ、あるいは嫌って釣れないのではないかとの意見もあり、使用を中止したことがあった。さいわい第二回九州・山口地区漁村青年大会に出席したのでその折、水産試験場藤岡技師に、魚探が果して魚に影響するのか否かの調査を依頼していたところ、同技師より書面にてその報告を戴いたので、以下原文のまま発表する。
昭和三十二年九月三十日
青年部長殿 藤岡技師
拝呈、先般雲仙での協議会では、いろいろ貴重な体験発表や討論をお聞きしてためになりました。今後の活躍を心からいのっております。
さて其の折、話に出ました魚探が魚に影響を及ぼすか否かの点について一応まとめましたので御回答致します。
詳しく書けば長くなりますから、要点のみにしました。御了承下さい「タコ壺の作り方」を参考に送ります。御使用済後御返送戴ければ幸いです。皆さんによろしく。

魚群探知機について
魚群探知機(以下魚探)を電探と呼ぶのはまちがいである。一部では今なおそう呼んでいる様であるが、「電探は海の中に電気を出して魚群を知るのだから、魚がしびれたり死んだりする」と言うようなことも、此の言葉のまちがいから出ている場合が多いようである。
現在、一般に普及している魚探は水中に電気を伝えるものではなく、音波を出しているものである。この点では外国では、エコーサウンダー(音の反響を利用し、海の深さを測る機械)或いは、フィッシュファインダー(魚群発見機)等と言う言葉が用いられているのでもわかる。普通使用されている魚探は、その機能上、
◎高周波音を発射する様作られている。
◎可聴音の限界に近いものは使用されていない。
魚類の音に対する感覚は、低周波の音域に偏しており、全体として音に対する感覚は発達しているとは考えられない。
現在までに、超音波の魚体に及ぼす影響について、二、三の実験と観察が試みられているが、その結果から推測すれば、現在普通に本邦で使用されている種類と同程度の魚探の放射音波によっては、魚族をはなはだしく逃避せしめ、或いはこれ等を死滅せしめ、或いは、産卵や発育を阻止または減退せしめる可能性は殆ど考えられないといってよい。
◎弾性振動数を音として感ずるには、其の高さにも強さにも範囲がある。即ち聴覚には可聴限界があり、音としてきこえるのは、振動数一万六千~二万の範囲であることはよく言われている。この範囲内の振動数を可聴振動数と言い、このような弾性内を可聴音波と言う。そして、二万サイクル一秒以上の振動数を超可聴振動数といい、このような弾性波を超可聴波又は、超音波と言っている。実際問題として、一万六千サイクル一秒をききとる人は少なく、一万四千サイクル一秒以上を超音波としている場合が多い。
参考文献 魚群探知機 昭和三一年一〇月、川田三郎著
音響測深儀 昭和二八年八月、茂在寅男著

無線電話(トランシーバー)
無線電話とは無線通信を応用した電話で、無電ともいう。この無電は戦時中から一部実用化されていたが、漁船などに使用されはじめたのは、昭和三七年ごろからであった。このような戦後の無電は、我が国の軍事用であったものを改良したものか、外国の技術を導入して作られたものか判らない。市民ラジオといわれるもので、はじめ少数の船が使用してその便利のよさがわかり、たちまちのうちに全船に普及した。〇・一㍗のもので七里ヶ曾根と勝本港ぐらいの交信しかできなかった。より遠くの漁場に出かける大型の船は、逐次、正規の手続きを経て、一㍗無電を備え、いち速く開局していた箱崎海岸局に加入した。
その後、一㍗無電も増え続けたので、昭和四八年三月に勝本漁協にも海岸局が開局し便利になった。一九㌧型の船では一㍗と共に長距離用も備えている。
無電の普及によって連絡が容易になり漁獲の向上、安全操業に寄与するところ多大である。

混線とグループ
便利だからと、同周波(二七、一一二)のものを全船が一度に使用したため、漁がある場合などの必要時には混線が甚だしく通話出来ないことがしばしばであった。
またどこにも不心得者がいるもので人の交信を妨害する者が出はじめた。困るのは遭難救助の場合などの緊急連絡であった。このようなことから沖船頭用として別周波(〇八〇)を使った。また許可周波をそれぞれのグループに分かれて使うようになった。一㍗無線も同じことがいえる。グループの統制をとるためそれぞれの責任者を決めているが、グループ内の懇親と情報交換をはかるべく、ときどき無線会を開いて盃をくみ交しながら歓談している。

ロラン
第二次大戦中に開発された、双曲線方式の長距離航行援助施設のことである。この双曲線方式は、一つの双曲線座標と他の座標との交点として観測点位置を決定する。
昭和三四年一一月、日本ではじめてのロラン局三局が開局、同三九年七月米軍管理の日本海側のロランA局四局が、わが国に移管された(燈台、航路標識のいろいろ参照)。
ロランは測定精度が高く測定も容易なため外洋上の船舶はもちろん航空機にも利用されている遠距離用電波標識である。
漁船にロラン受信機を装備したのは、当然その必要性から遠くの漁場に出かける大型船からであった。中型船(五㌧―一五㌧)もロランがあればこそ、安心して沖の島(福岡県宗像郡)以北の漁場にアカイカ取りに行くことができるようになった。たとえば、目標物がなに一つ無い大海原で、夜間でも霧かけ日和でも自船の現在位置が海図上にわかる。航海中時間を決めて測ると正確な速力や進路の正否もわかるといったありがたいものである。
遠い海で数日間流し操業をしてもなんの心配もしないでよい。どの方角に流れようが昨日と同じ場所にやり直す事もできるし、「たより」がわかれば、漁のあった場所に移動することもできる。このことは、全く山の見えないときの七里ヶ曾根の操業についても同じことがいえる。また自宅に対しても、正確な入港時間を海岸局を通じて伝えることができ、悪天候時に家族は心配しなくてもすむ。
漁民にとってなにより気強いことは、機械故障などのとき、同周波の無電とロランを装備していれば、事故船も救助船もロラン海図上の番号によって、その距離や到着までの時間を正確に知ることができ、迷うことなく事故船に到着し、曳航して帰ることができるということであろう。しかし、電離層などの影響から一帯に夜間はうつりが悪くて測りにくく、昼間は測りよいようである。また場所によって、うつりのよいところと悪いところがあり、上(かみ)(日本海方面)に行くほどよく、玄海のイカ取り漁場などは悪いという。したがって、ロランのうつりの悪いところで霧かけなどで夜中に入港できないときは、あわてずあせらず夜明けを待ってロラン測定を行うべきだといわれている。
デッカ=航行援助施設の一つ、イギリスで開発された長波のCW(連続波)型双曲線方式。
オメガ=ひところ、最後の電波標識といわれ、世界中に七ヶ所の標識所を建設すれば、どこからでも受信されるし、海中の潜水艦からでも受信されるといわれた。対馬北部にその標識所の一つが建設され、巨大な鉄塔が望見される。

自動操舵装置
自動かじ取り装置、ジャイロパイロット、オートパイロットなどともいう。自動操縦装置の一つ、船舶や航空機の操縦員に代わって、自動的に所定の針路を保たせる方向制御のサーボ機構をいい、船舶においては、大洋航海の有力な航海計器の一つとして盛んに使われるようになった。
磁気コンパスの方位を基準にした、磁気コンパス式自動かじ取り装置もあり、勝本の一九㌧型全船と、中型船の一部で使用している。
 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社