天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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第五章 漁業組合の発展 第四章 イルカと漁業

第四章
イルカと漁業

一、イルカによる被害

被害の表面化
壱岐周辺を回游するイルカの種類は、バンドウイルカ、ハナゴンドウ、オキゴンドウ、カマイルカ、コビレゴンドウ、マイルカの六種である。そしてこのイルカの頭数については、昭和四〇年、壱岐・対馬海域のイルカを調査した長崎大学水産学部の水江助教授によれば、その数約三〇万頭。また水産庁調査研究部(青山、小笹の両氏)では約三二万頭と推定されている。
勝本の漁業は、このイルカの大群によって多大の被害を蒙っているのである。バンドウイルカ、ハナゴンドウ、オキゴンドウ、カマイルカの群れが、主に漁場を荒す悪役達である。
イルカによる被害は、古くからあったものと思われる。だが資源がゆたかで、漁業が今日ほど盛んでなかった過去においては、イルカによる被害など、現今のように神経を使うほどのものではなかったかもしれない。想像すれば、和船時代の漁師達は、操業中に近寄ってくるイルカがあれば、船べりを叩いて追い払うか、また銛竿で一頭ずつ突いて捕るぐらいしか、イルカの駆除については知らなかったであろう。それでやってゆける時代だったのである。だが年とともに、こうしたのどかな撃退法では間尺に合わなくなってきたのである。
勝本でイルカの被害が問題になり始めたのは、昭和三〇年前後のことであった。漁協に青年部が結成され、機関紙である『すなどり』が創刊されると、それまで意見発表の場を持たなかった漁民に加えて、青年達の意見が掲載されるようになった。浦部漁業青年の代表者は、集会に出席する機会を多く持つようになって、このような会合の場で、イルカによる被害が議題としてとりあげられるようになり、切実な問題として、徐々に表面化してきたのである。

イルカ食害発生報告
同じ頃、抄い網漁法が導入され、集魚灯もそれまでのガスランプやバッテリーから発電機へ移行し、各漁船に普及して行った。さらにエンジンもディーゼル化し、船型も次第に大きくなった。
昭和三三年頃、ボンボン曳繩(こぎのう)が開発されて、それまで一本ずつ釣りあげていたブリが、ときには二〇本、三〇本と釣りあげることができるように替って行った。こうして漁獲は激増し、出漁日数も増えて行くのだが、このブリ漁にイルカによる被害が大きく表われてきたのである。
ところで、昭和三〇年代後半から同四〇年にかけて、ブリ・イカ・タイ釣りの魚種別任意団体が相ついで結成された。これは自分達の漁獲物は荷揚げから販売方法に至るまで、組合と直接交渉できる組織である。
昭和四七年には、任意団体からそれぞれ代表一、二名を総代として選び、総代会に送ることができるようになった。これで任意団体の総意を総代会で、直接組合に伝達できる途(みち)が開け、漁民の声を組合運営に反映できるようになったのである。
こうして昭和三九年に、イルカ食害発生報告が、組合から長崎県へ初めて提出されたのであった。被害についての実態はあらまし次のとおりである。

ブリ釣漁の被害
ブリ釣漁におけるイルカの被害は、イルカが回游してきたときだけではない。前夜にイルカが回游してきた場合には、翌日は全く漁がない場合もある。海水が澄んでいるときは二日も三日も、甚だしい場合は一週間もイルカの影響が残り、ブリが全く釣れないこともあった。
ボンボン曳繩に二〇本か三〇本位のブリが食いついた手答えがある。「今日はやったぞ!」とはやる胸を押さえながら、ピーンと針金のように張り切った繩を用心深く、そろそろ引きあげにかかる。だが、このときにイルカが回游してきたら、もうおしまいである。
重い繩は簡単にはあがらない。そのうちプツン、プツンと枝ごとブリを食いちぎられていくのが感じられる。今が今迄、胸に描いていた大漁の夢は、無情にも消えてしまう。そしてあとに残るのは、使いものにならない漁具だけ、という状態がしばしばなのである。

イカ釣漁の被害
漁場に到着してパラアンカーを海中に投入し、集魚灯をつける。イワシも沢山寄ってきてイカがぼつぼつ釣れ出す。今夜は大漁だな、と思って海中をのぞいて見る。イ力が群れを作り、剣先をそろえて海面近くに泳ぎ回っているのが見える。ところがざぶん、ざぶんと水しぶきをあげて海のギャング、イル力が登場する。イルカはイワシなど小魚には目もくれず、イカだけを追い回して食い荒してしまうのだ。横着なイルカは船の下迄もぐり込んで、イカを追いかける。
たまらず鉄のおもりを投げつける。発音器を叩いたり、花火でおどかす。だが一度は暗がりへ逃げても、すぐにまた戻ってくる。こうなるともうイカは全くとれないのである。
イカが多く、漁船の少なかった昔は、漁場を替えてイカを取っていた。しかし、現在のように資源が少く、漁船だけが多い夜イカ取りでは、夜半すぎに漁場を替える位なら、そのまま入港して、寝てしまった方がよっぽどましである。
最近の夜イカ取りで、イルカの情報を耳にしない夜は皆無である。

パラアンカーの被害
イルカが多くなったためか、イルカが乱暴になったせいか、最近ではパラアンカーをイルカに破られる例が多くなっている。運の悪い船は二回も三回もやられている。夜だけではなく、昼間のタイ釣りやブリ釣り船も被害を受けている。だから潮時まちにパラアンカーを入れているとき、もしイルカの大群がきたら、破られないために急いでパラアンカーを船内に引きあげている状況である。このパラアンカー、新調すると小型船のもので三万円から五万円。大型船用だと三〇万円もする高価なものである。また修理代も馬鹿にならず、中型船で二万円から三万円。大型船用だと五万円から八万円もかかるのである。昭和五二年度中には、三〇件の被害報告が出ている。

二、イルカとの対決

銛銃
昭和三一年、全国漁村青年団漁業技術研究発表大会に県代表として参加した青年部中原(芳光)研究班長が、同大会に出席した人の紹介で、銛銃のカタログを持ち帰った。銛竿だけしかなかった時代だったので、これならイルカを必ず捕獲できるだろうということになった。そしてすぐに七丁の銛銃が購入されたのである。さっそく魚箱(トロ箱)を海上に浮かべて、移動しながら試射すると、七、八㍍の距離から箱板を打ち抜く威力があった。
ところがこの新兵器も漁場で使用してみると、さっぱりイルカに命中しない。なにしろイルカが水面に姿を見せるのは、瞬間であり、そのうえ船がゆれて照準が合わせにくいのである。おまけに銛にはロープまでついている。とにかくイルカに命中させることができずに、成果はなかった。

銛竿と奨励金
せっかく手に入れた銛銃も役に立たぬため、銛竿でイルカを捕獲しようということになった。銛竿の購入船主には、一本につき一〇〇〇円の捕助金が出された。昭和三二年には銛竿でイルカを捕獲した者には、一頭につき三〇〇〇円の捕獲奨励金が組合から出るようになった。その額もついで五〇〇〇円となり、町からも同額の奨励金が出され、イルカ一頭につき合計一万円となった。しかし捕獲の方はさっぱりで、初年度には数頭捕獲されただけで、その後は一頭も捕獲できない年が続いた。

三、イルカ捕獲までのみちのり

イルカ追い込み漁法の研修
イルカ対策をたてるには、イルカを知らなくてはならない。昭和三九年、組合より提出された「イルカ食害発生報告」に対し県では同四〇年一月、長崎大学水産学部水江助教授に依頼して、対馬東方海域の調査が行われた。また同四二年には水産庁調査研究部でも調査が行われた(前述)。この両調査報告が国・県のイルカ対策の重要な資料となった。
昭和四〇年一〇月、イルカ追い込み漁法研修のため、静岡県伊東市川奈の富戸漁協へ研修生三名(沖責任者川村嘉昭、青年部川谷力雄・吉井正治)が派遣された。

強力発音器
富戸漁協がイルカ追い込みに使用している強力発音器が、イルカに効力があるというので、さっそく一〇本を購入した。沖責任者やブリ釣組合役員などの船に積み込んで、イルカ追い払いに使用されることになった。
最初の使用者である沖船頭の一人は、使用報告を次のように『すなどり』に載せている。
七里ヶ曾根の下地(しもじ)から数百頭のイルカの大群がやってくるのを、三隻で三本の発音器をたたき、イルカを下沖(しもおき)の方へ方向を替えて逃走させることに成功した。

イルカ追い込み船団の結成
昭和四一年、さらに四〇本の強力発音器を購入し、各町の優秀船五〇隻に分配し、イルカ追い込み船団を結成した。船団長には研修に参加した川村氏が就任し、伊豆方式による追い込みを試みたが失敗に終った。

イルカ対策協議
年毎にイルカによる被害件数は増加していった。昼夜を問わず、イルカは連日のように回游してくるのである。追い込み船団はそのたびに発音器をたたいて、イルカの駆除につとめたが、回を重ねるごとにその効果は薄れて行った。
こうしたありさまに、漁民の怒りと不満は日毎につのるばかりであった。昭和四一年二月二三日、全船沖止めをして、各関係官庁係員出席のもとに、イルカ対策協議会が開かれ次のとおり協議された。
⑴発音器使用結果
イ、発音器の音響にイルカが馴れてくるにしたがって、逃げる率が少い。
ロ、ゴンドウイルカには反応がなく逃げない。
ハ、昼夜を問わず数回も回游してくるし、イルカの群れがあまりにも多いので、その効果がうすい。
⑵追い込み漁法
追い込み漁法の場合、漁場から沿岸までの距離が遠く不可能である。当分の間、現在のままで研究実施する。
⑶今後の対策と処置
県に陳情依頼して、自衛隊の機銃掃射で追い払うことはできないか。
⑸イルカ追い込み実施
昭和四二年三月、静岡県富戸漁協よりイルカ追い込み技術者二名を招き、追込みの実習が行われたが、イルカの種類が異なるためかこのときは失敗に終った。
⑹銃殺計画
昭和四〇年四月、要請に応じ海上自衛隊佐世保総監部でイルカの銃殺を計画、実施したが、海上しけのためイルカを発見できなかった。
⑺漁船での陳情
昭和四三年一月二六日のことであった。例の如くイルカのため漁がなく出漁中のブリ釣船全船が、漁場より郷ノ浦港に直行した。ブリ釣組合役員を先頭に壱岐支庁で漁着のまま、イルカ対策要請の陳情を行なった。
⑻猟銃
イ、昭和四三年二月、岩手県赤浜漁協よりイルカ猟銃指導者として、川口鶴松組合長を招いて、銃の実射等の説明をしてもらった。
ロ、イルカ退治用猟銃所持許可をもらうために必要な猟銃取扱講習会が県警により昭和四三年三月九日、勝本中央公民館で開催された。勝本漁協から二八名、郡内各漁協からも多数受講し、試験の結果全員合格した。
ハ、一〇月に県の補助でイルカ駆除のため散弾銃(二二口径)一五丁を購入した。
⑼イルカ捕獲船団結成
イルカ追い込みに再度失敗したため、昭和四三年六月、イルカ追い込み船団を解散し、新たにイルカ捕獲船団を結成した。
勝本町漁協イルカ捕獲船団規約(抜粋)
第一章
総則
第二条
この船団は勝本町漁業協同組合に協力し、組合活動を促進し特にイルカの駆除に万全を期し、併せて生産に寄与する事を目的とする。
第二章
役員及び船団
第三条
この船団は沖船頭及び各任意団体長並びに猟銃所持者、許可保持者をもってこの任にあたる。
第四条
この船団に次の役員及び委員を置く。担当役員・漁協理事二名、監事一名、船団長一名、副船団長二名
第六条
事業
一、イルカ捕獲の行動開始の標識はフライ旗と無線機を使用する。
二、イルカ発見船は速やかにフライ旗をたて、責任者へ連絡すること。
第八条
この会の経費は漁業協同組合に於て負担する。
⑽イルカ捕獲船
昭和四五年、国・県の補助でイルカ捕獲船勝漁丸(一九㌧、小型捕鯨砲装備)を建造、五島より捕鯨砲手を招き、約二〇日間捕鯨砲の取り扱いについて指導を受けた。
その後は勝漁丸が専用捕獲船として使用されたが、昭和四九年三月迄約二〇頭のイルカを捕獲したに過ぎない。そのうち捕鯨砲の銛が使用不可能となり、捕獲船の操業を打ち切った。
⑾猟銃と銛竿の追加
昭和五〇年三月、猟銃五丁と銛竿六〇本を購入して、もっぱらイルカ追い払いを主体とする対策をたてた。
⑿大目流し網
昭和五一年四月、県水産部のあっせんで、大目流し網によるイルカ捕獲の試験操業が二日間実施されたが、利口なイルカが網にかかるはずもなく不成功に終った。
和歌山方式による追い込み
昭和五一年三月、今度は和歌山県太地漁協より、イルカ技術者数名を招き、彼等の指導のもとに実習を行なった。赤瀬沖より羽奈毛迄追い込み、あと一歩というところでイルカに逃げられてしまった。

四、追い込み成功

最初の追い込み
昭和五一年四月一二日、勝本漁民が最初にイルカ追い込みに成功した記念すべき日である。この日、久保ノ浜で松尾安栄丸、川村神恵丸ほかの船がイルカの群れを発見した。すぐに発音器をたたいて追い払っていると、イルカは本宮山から大瀬戸の方へ逃げて行く。もしかしたら追い込めるのではと思ったので、全船に無電で連絡をとり、全船操業を中止して辰ノ島に追い込んだのである。追い込んだものの仕切網がなく、湯ノ本の古網を借りてきて締め切るという始末であった。だが、どうにかこうにかして一二頭のイルカが捕獲できたのである。
これまで、イルカの追い込みは不可能ではないかというあきらめのムードが広まりかけていた。しかし今度の成功で、ひょっとしたら大量捕獲も可能ではなかろうかという希望が湧いてきた。

本格的追い込み
同年四月二二日、手長島沖二㍄でイルカを発見、ただちにイルカ船団は全船操業を中止して追い込み体制に入った。中原船団長指揮のもとに一致協力した結果、四三頭のイルカを捕獲できたのである。
銛銃使用以来二〇年の長い間の悲願が成就して、イルカとの闘いに勝利の女神がほほえみかけたのである。みんなが力を合わせて追い込みに当れば、必ずイルカを追い込めるという自信ができ、翌年度以降の大量捕獲へと移行して行ったのである。

五、壱岐郡イルカ対策協議会発足

イルカの処理
昭和五二年度より本格的にイルカ追い込み作戦が成功し、実績もあがって行った。
伊豆方面にイルカ視察に行った小西理事の手記にも見られるように、イルカは獲る前に処分の方法を考えてから捕っている、という現地漁協関係者のことばがあった。しかし現実にはこんなにも処理法が大変だとは考えてもみなかった。捕獲された中で水族館に引きとられて行く幸運なイルカもいた。解体されて食用にもされた。がその数は僅かな頭数である。大半はどうにかして処分せねばならぬのである。やむなく海中投棄と決まった。セメントブロックを重りにして投棄するのである。だが海洋汚染法違反で海上保安庁より差し止められた。ブロックやロープ代も馬鹿にならない金額であった。次に地中埋没をしたが場所的にすぐに行きづまってしまった。全船が石油代自弁でイルカを捕獲すればする程赤字はかさむ一方であった。

壱岐郡イルカ対策協議会結成
このような状況のもとでは、一単協の力では無理である。そこで郡内全漁民に呼びかけて、昭和五二年四月、壱岐郡イルカ対策協議会が結成され、初代会長に当漁協総代会議長(小川唯芳氏)が就任した。郡内各漁協から漁民代表委員二三名と各漁協長が役員、顧問となった。協議会結成後はイルカに関する問題は、この会が担当することとなった。

高速作業船の建造
昭和五三年二月、イルカ作業のための専用高速船「はやぶさ」一号と二号(一・九六㌧)が、三一三万円で建造され、仕切網の投入などイルカ作業全般に活躍している。

イルカ追い込み漁法
⑴発見
イルカを発見した漁船は発見位置、推定頭数・種類等を責任者に報告するとともに、フライ旗もしくは発電機のあかりでイルカの位置を知らせる。
⑵協議
報告を受けた責任者は、船団長に報告し、無電で追い込みか追い払いかを決める。追い込み実施の場合は各船団長を通じ、他漁協の場合は定められた役員により、全船に操業を中止して追い込み体制に入るよう指令をする。
⑶追い込み体制
指揮船がイルカを地(じ)(島の方)に見るよう位置し、それを中心にして半円を描くようにして役員船が位置につく。先導船は半円の左右両端に位置する。一般の漁船はその間に、適当に位置し包囲を完了する。各船は指揮船の指示により発音器をたたいて追い込みを開始する。
⑷追い込み最終段階
海岸近くなると全船(高速船以外)はイカリを投入して曳航しながら発音器も使用する。高速船団は包囲陣とイルカとの中間に、イルカの後を半円を描きながら走り回り、イルカを追う。
⑸仕切網
辰ノ島の入江にイルカを追い込んだら、待機していた勝漁丸が仕切網で入江を締め切ってひとまず追い込みを完了する。このあと二重三重に仕切網を張る。
⑹違反船の監視
追い込み中は沖船頭が違反船がないよう監視を続ける。違反船は漁獲物を没収される。

イルカ一〇一〇頭追い込み成功
昭和五三年二月二二日、一〇一〇頭のイルカを辰ノ島の入江に追い込んだ。イルカ処理には壱岐郡内の漁民が漁を休んで作業に参加した。
この処理作業の空中写真が、新聞、テレビ等で報道されると、たちまち全世界の動物愛護団体から抗議が殺到した。
イルカを有効に利用するため、腐敗防止のための血抜きで入江が真赤に染まったのが、いかにもむごたらしい光景として映(うつ)ったものであろう。
またこの血抜き作業がイルカの撲殺(ぼくさつ)といった誤報となり、抗議殺到に油をそそいだのではないだろうか。人力ではプロレスラーか横綱級の怪力の持主でも、棒で殺せるものかどうか、常識で冷静に判断すれば判ろうというものである。
だがいかに世論の袋だたきにあっても、生活防衛のためにイルカ捕獲をやめるわけにはいかないのである。
この事件のため、壱岐の名は世界的に有名になった。

六、国の対応

追い払い計画
イルカ捕殺に対する海外の反響があまりにも激しく、日本商品ボイコットの声も強く、反日感情が高まりそうになったため、外務省は水産庁や長崎県に、イルカを殺さず、追い払う方法を研究するよう申し入れた。
福田首相が訪米する折でもあったので、科学技術庁は、昭和五三年度の特別研究促進調整費三七〇〇万円をあてて、イルカを音波により追い払う技術に取り組む計画を発表した。

研究の方法と担当研究機関
⑴イルカ発信音識別に関する研究通産省工業技術総合研究所により実施(イルカの言葉)
⑵音波及び超音波刺激によるイルカの行動制御に関する研究
水産庁水産工業研究所による研究(模型シャチに威嚇音、シャチの鳴き声を録音した水中発信機を内蔵し、移動しながら発信するもので、和歌山県太地で実験。勝本での実験も予定されていたが、効力がないため中止となった)
魚類の音波による刺激の研究
東海大学海洋学部(水産庁委託)によりシャチ類の鳴き声やイルカを撃退するため考案された威嚇音や超音波がブリの行動にどのように影響するかを調べる目的で、勝本で実験が行われた(昭和五三年~昭和五五年まで三年計画)。
⑷音波など利用したイルカの行動制御技術の研究
この研究は昨年(昭和五四年)から着手して、音波を出す一号機を完成し、辰ノ島、油目瀬戸のイルカ蓄養場で、同五五年三月、実験が行われた。水産庁研究課竹浜技官、東海大学海洋学部市原教授ら一〇人のメンバーによる。

イルカ抗議に対する国の対応策変化
昭和五五年三月六日付の『西日本新聞』は、外務省の在外公館に対する要請を次のように報じている。
壱岐のイルカ大量捕獲に対して抗議を受けた日本の在外公館は三月五日までに三十館をこえ、抗議の火の手はさらに拡大しそうだ。外務省は『このままだと日本人に対する偏見を与え、さらに捕鯨反対運動にも結び付きかねない』と事態を重視、水産庁と協議、漁業専門家による在日外人への説明会を計画する一方、世界各地の日本人会へも『パーティーなどでイルカの話が出たら、日本の立場を堂々と主張して欲しい』と異例の要請をすることを決めた。
漁場を荒らすイルカ約六百頭を捕獲した壱岐の勝本漁協が、新しく導入したイルカ破砕機で処理作業を始めたのは二月二十八日。この様子は外国通信社が詳しく報道したが、その翌日から米国、カナダ、オーストラリアの大使館、総領事館に抗議の電話などが殺到。
『知性ある動物のイルカを殺す日本人は残酷』『日本製品をボイコットする』などの抗議はキャンベラの日本大使館だけで、四日までに電話六十九本、テレックス四十八本、電報十通に達した。
抗議の火の手はスイス、ギリシア、英国、シンガポール、香港へと広がりをみせている。
これに対し外務省は、壱岐の漁民がイルカを殺さざるを得ない状況や、米国でもマグロ巻き網漁で日本より多くのイルカを殺している事実を記載した応答要領を在外公館に配布、防戦に懸命だ。
しかし壱岐の現地では米国などの環境保護団体の約十人が常駐を続け、映画『ジョーズ』を撮影した外人カメラマンがヘリをチャーターし空から処理作業を写すなど国際的な波紋が予想されている。
昭和五五年四月八日、衆議院農林水産委員会での質疑で、大来外相は答弁で同様のことを明言しているのは、四三五頁に紹介のとおりである。

七、イルカ食害対策経過措置

⑴昭和三一年、銛銃七丁購入(一七万五〇〇〇円)
⑵昭和三二年 イルカを捕獲した者に一頭につき三〇〇〇円の奨励金が決まる(組合)。
⑶昭和三九年 組合より県へ、イルカ食害発生報告を出す。
⑷昭和四〇年
イ、一月、長崎大学水産学部水江助教授による対馬東方海域のイルカ実地調査が行われる。
ロ、一月 九州各県と山口、静岡、青森、岩手、愛知の各県にイルカ被害状況を照会する。
ハ、二月 イルカ捕獲用に突棒用銛を二〇丁購入する。
二、三月 壱岐郡全漁協よりイルカ対策の陳情書を提出する。
〈陳情書〉
一、陳情の要旨
壱岐・対馬近海に於けるイルカ大群の食害防止対策に関する陳状を致すものであります。
一、陳情の理由
壱岐郡内には漁船数千七百隻が一本釣漁業に従事いたしていますが、近年は特にイルカの回游がはげしくその被害が甚しく、又大群化している為、出漁中一旦イルカが回游した日は全船ほとんど無漁で帰港する。この場合直接経費(燃料代・餌料代・消耗品代)だけでも一日操業経費一隻平均千円として、郡内漁船では百七十二万円あまりの欠損をして帰港し、一ケ月最低五回の大群が回游するとみて一年六十回、一億円余りの直接経費の欠損をいたしております。長崎大学水江助教授の資料に依りますと、長崎県の近海には三十万頭強のイルカが棲息していると想像され、年間の食害数量は二百十九万㌧にて、長崎県年間総水揚高四十万㌧の約五倍の食害をうけている。尚浮魚類というものは人間によって漁獲される量は極く少量で、人間が漁獲したからその資源が減少したとかいう事自体が噴飯ものであり、あえていうならイルカの食いのこりをほんの少し戴いているにすぎず、今後は食害の糾明、利用、退治等綜合的な研究を押し進めていくことがゆきずまりつつある漁業の打開策として述べられている。漁業構造改善事業で種々補助事業を進めて戴き感謝いたしておりますが、予期以上のイルカ回游による被害にて先ずイルカの食害防止対策の推進こそ先決問題であります。故に壱岐郡漁協長会の決議により郡内漁民五千三百九十名を代表して此の対策を、早期推進いたしたく、県当局に於かれましても出費多端の折、誠に恐縮ながら左記の通りの方法の内最も可能な方法を県議会に於てご採択の上、私共壱岐沿岸漁民の此の死活問題の窮状を除去して戴きますよう、ご高配を賜ります事を壱岐郡漁協長連名にて右陳情いたす次第であります。

一、
銛竿(樫木製)
一本
千五百円

一個
千五百門
数量、千個分、百五十万円、補助要求額(五割)七十五万円
二、
知事より自衛隊に依頼していただき機関銃掃射
三、
捕鯨用砲を壱岐郡漁協に二基又三基購入の助成
四、
イルカ追い込み用強力発音器の設置
数量、五百本分、四百万円、補助要求額(五割)二百万円
昭和四十年三月九日
箱崎漁業協同組合
組合長理事
下条岩雄
勝本
熊本長太郎
八幡
佐藤一男
石田
豐井三一
武生水
平田喜代太
初山
山内藤好
渡良小崎
坂本数
沼津
藤尾春衛
三島
島永祐術
長崎県知事
佐藤勝也殿
ホ、四月 水産庁漁業調整課、海洋一課、東海区水産試験所で対策の打ち合わせをする。
へ、四月、岩手県、大分県に猟銃使用及び突棒漁業について照会する。
ト、四月 強力発音器一〇本を購入。
チ、五月 海上自衛隊佐世保総監部と対策について打ち合わせをする。
リ、六・七月 江ノ島海獣動物園長中島博士による、壱岐・対馬・大村湾の現地調査が行われる。
ヌ、一〇、一一月 静岡県伊東市川奈の富戸漁協にイルカ追い込み漁法研修のため六名の研修生を派遣する(壱岐三名、対馬三名、壱岐三名は勝本から)。
⑸昭和四一年一〇月 イルカ追い込み船団を結成した。
⑹昭和四二年
イ、二月 各関係官庁出席のもと全漁船が漁を休んでイルカ対策協議会を開いた。
口、二月 壱岐郡漁協長よりイルカ対策陳情書を再度提出する。
ハ、二月 長崎県町村会議長よりイルカ対策陳情書を提出する。
二、三月 静岡県伊東市川奈の富戸漁協よりイルカ追い込み技術者二名を招聘し、壱岐周辺の現地調査と追い込みの実地指導をしてもらう。
ホ、三月 強力発音器四〇本購入に対する県費補助が出る。
へ、六月 組合長より請願書を提出する。「イルカ」の撲滅駆逐に関する請願書
昭和四二年六月一日
勝本漁業協同組合組合長理事
熊本長太郎
紹介議員
山本武生、山本隆夫
一、請願の要旨
漁民生活を脅やかす「イルカ」の撲滅又は漁場よりの駆逐について、早急に対策を講じていただきたい。
一、請願の理由
近年壱岐周辺の漁場は、特に十一月から翌年四月迄のイカやブリの盛漁期において連日の如くイルカの大群に襲われ、このために一本釣を主体とする漁民(勝本漁協四百五十隻、壱岐全島千七百二十隻約五千名)の水揚高は激減して生活に大きな脅威を受けています。昨年度県御当局の御高配により、強力発音器四十台を購入し、静岡県伊東市富戸漁協よりイルカ追い込み専門の熟練者を招き、漁場よりの駆逐や追い込みによる撲滅について、全組合員一致協力をして実習を兼ね実施努力いたしましたが、本島周辺海域に回游するイルカは、強力発音器に無反応なオキゴンドウイルカやイルカ類中最も利口なカマイルカが多いため失敗に終り、依然としてイルカ対策に苦慮している現状でございます。何卒私共の苦境を御賢察賜り早急に抜本的対策を講じて頂きますように、茲に参考資料を添え請願いたします。
昭和四十二年六月一日
長崎県壱岐郡勝本町
漁業組合組合長理事
熊本長太郎
イルカ追込船団代表者
川村嘉昭
副申
沿岸漁業の盛衰は、漁獲の増減にあることはいうに及ばず、勝本漁民が一番期待をかける冬期の盛漁期が、イルカの来襲による被害は甚大というほかなく、沿岸漁業構造改善事業等の施設よりもイルカの食害防止対策こそ行きづまりつつある壱岐沿岸漁民の打開策であり、急を要する問題であります。
この窮状ご斟酌下され請願を県議会で御採決上申下さいますよう副申いたします。
昭和四十二年六月二日
長崎県壱岐郡勝本町町長
白川宇一
長崎鼻議会議長
中村禎二殿
⑺昭和四三年
イ、六月 イルカ捕獲船団を結成した。
口、一〇月 イルカ駆除のため猟銃一五丁を購入する。
⑻昭和四五年三月 イルカ捕獲船、勝漁丸(一九㌧、小型捕鯨砲装備)が進水した。捕鯨砲々手を五島より招聘し二〇日間指導を受けた(昭和四九年三月、捕鯨砲の銛が使用不可能となり操業打ち切りとなる)。
⑼昭和五〇年
イ、三月、猟銃五丁、銛六〇本を購入して追い払いを主体とする対策方針を打ち出した。
ロ、一一月 イルカ駆除、追い込み用発音器を四〇〇本作製した(一二六万円)。
⑽昭和五一年
口、三月 和歌山県太地漁協よりイルカ追い込み熟練者を数名招聘して実習指導を受ける。
イ、四月 大目流し網によるイルカ捕獲の試験操業を二日間実施した。
ハ、四月一二日 イルカ追い込みで始めて一二頭を捕獲した。二二日には再度四三頭を追い込み捕獲した。
二、九月 県の補助でイルカ追い込み用仕切網二張を購入した。
⑾昭和五二年
イ、二月 イルカ一七二頭の追い込みに成功、大量捕獲の見通しがついた。
口、四月 壱岐郡イルカ対策協議会が結成された。
ハ、イルカ作業のため小型高速船(はやぶさ一号・二号)が進水した。
⑿昭和五三年
イ、二月二二日 イルカ一〇一〇頭を一度に追い込んだ。このとき処理作業が報道され、世界各国の動物愛護団体からの抗議があいついだ。
口、三月一六日 対策協議会より県知事に陳情書が出された。
ハ、三月二六日 久保県知事来島。
㈠壱岐郡漁民代表約五〇〇名(内婦人二〇名)と対馬代表一〇名が参集した。
㈡漁民代表から知事ヘイルカ対策の現況説明、捕獲処理に対する経費の助成等要望。
㈢組合長からの要望
〇イルカ追い込み処理経費の国庫助成
〇販路の拡張、有効利用の研究
〇イルカの捕獲、補給センターの設置
〇食用、加工用の冷蔵庫の設置
〇イルカ処理、解体船の建造
〇イルカ捕獲、駆除専用船の建造と維持管理費の負担
㈣知事よりイルカ追い込み経費の特別補助確約
⒀昭和五四年
イ、二月 イルカ短期蓄養施設を油目瀬戸に設置(蓄養中潮流や風波のため網が破損し、イルカが逃亡するという失敗があり、今後の蓄養対策に大きな課題を投げかけている)。
ロ、二月 イルカ解体処理作業船「はやぶさ」三号建造。
ハ、五月 壱岐郡イルカ対策協議会一行一八名が県水産部へ陳情した。
・昭和五一年度以降五五年度までのイルカ捕獲頭数と種類及び処理状況は四二八頁のとおりである。

八、イルカ余話

大食漢イルカ
昭和三九年二月、一頭のイルカを捕獲し腹割りしたところ、イカのカラス(口)が大量に出てきた。
昭和四〇年四月、一頭のイルカを腹割りしたところ、ブリが六本取り出された。
昭和四〇年五月、一頭のイルカを捕獲し腹割りしたところ、ブリ四本、大タイの頭二尾分が出てきた。
昭和四一年二月、一頭のイルカを捕獲し腹割りしたところ、ブリ四本が取り出された。
(以上『勝本漁協日誌』より)
水江一弘助教授によると、水族館でイルカを飼育した場合には、年間を通じて一日に体重の一割以上の餌を必要とするといわれる。オキゴンドウのようなイルカは、その体重が数㌧もあるから毎日数百㌔の水産動物を食べるのである。そこで魚ではとても間に合わず、自分の仲間のイルカまでも餌として利用している。
このような大食漢のイルカが、何千、何万と群れをつくり、多量の餌を摂取すれば漁場の魚が姿を消してしまうのは当然である。

海のギャング・イルカ
勝本の漁業者が勝本の沖合いで体長四、五㍍のイルカを銛で突いたことがあった。イルカと格闘すること二時間。気がついてみると船は福岡県の小呂(おろ)島附近まで引き回されていたという。このような大型のイルカは漁船に引きあげることができないので、曳航した。
ボンボン曳繩に食いついたブリの横取りやイカ釣漁での横暴ぶりは前述したとおりであるが、ボンボンたぐりのブリを横取りされることもある。
イカ釣りの場合は、漁民はイルカのために発電機でイカを焚きよせているのかと疑いたくなる位に、イカが集まって潮時になって釣れ出した頃に、必ずといってよい程やってくる。
こうしたことから、イルカは「海のギャング」といわれるのである。漁業者のくやしさもさることながら、その損失額も相当な金額である。このままでは漁業自体が不可能になることさえ考えられるのである。

イルカ供養碑
捕獲処理されたイルカの霊を弔うため、昭和五三年、当時壱岐郡イルカ対策協議会小川会長が勝本町役場の長田水産課長らと計って、イルカ供養碑建設を計画した。この資金八〇万円は勝本町港湾関係業者、中原組・長岡組他の寄付で集まった。難航したのは建設場所であった。現地は壱岐対馬国定公園内であり、建設の許可がなかなかおりなかった。しかし小川会長の熱心な努力の結果、辰ノ島と決まり、同年七月一日に供養碑の除幕式と慰霊祭が行われた。
式には地元はもちろん、郡内の関係者多数が参加し、個侶によるイルカ供養が行われた。この除幕式の経費は対策協が持ったということである。
昭和五五年五月一六日付の『壱岐日報』は、「イルカの霊安かれ 辰ノ島の碑前で供養」と題して次のように書いている。
壱岐漁民が捕獲したイルカを網を破って逃がし、威力業務妨害罪容疑で逮捕された環境保護団体活動家のアメリカ人ケイトの公判が続けられ、生活防衛か自然保護か国際的波紋がなお広がるなかで、さる(五月)十四日午前十時から勝本港外辰ノ島の『イルカ慰霊之碑』前で関係者約六十人が集まって慰霊祭が行われた。
勝本漁協イルカ対策委員長・中上健次氏が「われわれは生活防衛上やむを得ずイルカを捕殺している。一昨年ここに慰霊碑を建て、毎年供養しているが、イルカも漁民の心情をくみとって、安らかに眠り、壱岐周辺に来ないで欲しい」と挨拶。僧侶六人によって読経があげられたあと、高比良支庁水産課長、本水勝本町助役、川谷勝本町議会議長、香椎勝本漁協長、布谷箱崎漁協長らのほか漁民たちが焼香してイルカの霊を慰めた。今シーズン捕殺されたイルカの数は二千百二十頭。
慰霊祭のあと勝本町漁村文化センター会議室で反省会が開かれたが、香椎組合長は挨拶で「イルカ問題は今後とも前途多難だ。県をはじめ関係各方面の協力で今年はスムーズに行っていると思ったら、ケイト事件が発生した。われわれは生活防衛のためイルカ退治をしているので、今後とも続けねばならない。ケイトは日本の国法を犯しているのだから、厳正な裁判を受けるべきで、われわれは絶対に負けてはいられない」と強調した。

イッキー君に面会
イルカ捕殺をめぐって暗い話が続く中に、明るい話もあった。勝本で捕獲され、幸運にも下関の水族館へ引き取られて行ったイルカをめぐる話題である。
世界的悪名をはせた勝本のイルカだが、下関水族館の人気ものとなっている「イッキー」君に名づけ親の勝本小学校六年・末松克己君(十一歳)が明十二日(五四年八月)、面会に出かける。
下関水族館では一昨年四月、勝本からイルカ三頭を引き取って曲芸を仕込んだが、今では垂直ジャンプやボール運び、ハードル跳びなどをおぼえ、観光下関のスターとして人気を博している。今年五月のデビューに当って、同水族館では下関や壱岐のよい子らから名前を募集、「イッキー」「ロッキー」「ラッキー」と名づけた。「イッキー」は末松君が応募したもので「壱岐――」の名がこめられている。
この本紙記事(五月一日付)を読んだ東京雪州会長真鍋儀十氏は「虐殺など暗いイメージの解消に大いに役立つ明るい話だ。おせっかいだが夏休みに末松君が下関に出かけて、エサの一つでもやったらうれしい」と勝本町議会事務局勤務香椎恵美子さんあて手紙に五万円をそえ贈った。
末松君は大喜び、母親の安子さんと十二日出発、福岡にいる兄成一君といっしょに同日、下関水族館に行くという。
(昭和五四年八月一一日付『壱岐日報』より転載)

イルカ議員
昭和四〇年代の壱岐選出の県議会議員は山本武生・山本隆夫の両氏であった。組合ではイルカ対策陳情を再三再四請願していた時代である。このイルカ問題に対し、地元選出両県議が県議会に対し積極的姿勢で論戦を展開した。このことを端的に物語るのが県議会内での両議員のニックネームであり、その名を〝イルカ議員〟と呼ばれ、口を開けばイルカのことばかりであった。
昭和五五年三月一四日付『長崎新聞』は「イルカは〝害獣〟・県議会で水産部長、今後も捕獲続ける」と題し、次のように報じている。
定例県議会は十三日、文教、農林水産、総務三常任委員会を開いた。農林水産委員会では壱岐のイルカ問題が取り上げられ、小松水産部長は「動物愛護団体のいい分もわかるが、漁業にとっては大きな〝害獣〟で、捕獲を続けていく」と、漁業保護優先の立場で今後もイルカ対策に臨む考えを示した。十四日も文教、農水、総務三委員会を続開する。
このイルカ問題を取り上げた横山孝雄議員(自民)が県の対応をただしたのに対し、小松水産部長は「動物愛護団体などのいい分もわかるが、漁業面では現実に大きな被害をうける害獣である。これを放置するわけにはいかない。今後も捕獲を続けていく」と、漁業保護優先を強調。さらに初村誠一委員(自民)がイルカ対策費が不足した場合の対応について質問したのに小松部長は「補正予算を組むなど、何らかの手を打つ」と、捕獲対策に積極的な姿勢を示した。

イルカ料理法
『朝日新聞』の記事に、イルカを試食した人の話として次のようなことが掲載されていた。
昭和五十四年二月に捕獲されたハナゴンドウイルカを対馬厳原町の魚専門料理店で試食し、格別に美味しいという訳にはいかないが、まずくてとても食えない物ではない。むしろへたなクジラよりはいけるというものだった。
まず小鉢には細切りにした肉をワカメと一緒に酢ミソであえたもの。クジラの尾の身よろしく、冷凍肉を薄切りにしたサシミ、水でさらしたサシミ、これはショウガ醤油で、みりん油にニンニクとタマネギをきざみこんで下地につけたイルカのステーキ、みりん砂糖ショウガ醤油での煮つけ、醤油にガーリックとタマゴの黄味をといたものにひたして、カタクリ粉をまぶして油で揚げた、タツタ揚。最後に鋤焼(すきやき)。
サシミ以外は肉を五時間位水を流しながらさらしたものである。その結果冷凍のサシミが一番ということになった。血なまぐささや脂っこさは感じられない。火を使ったものは熱いうちが食べどきで、冷えたら硬くなったり、においがして食べにくいというのが自称食通氏達の共通した意見である。
「長時間水にさらしたり、下地に長いあいだつけこんだりで料理に手間がかかります。しかしコツはショウガやタマネギ、ニンニク、みりんなどをイルカの味を殺さない程度につかうこと。また火を入れすぎると硬くなります。イルカだというイメージにこだわらなければ、クジラとたいして変らないでしょう」というのが腕前をふるった板前さんの弁。
勝本町営国民宿舎「壱岐島荘」の食堂にはイルカ料理があり、観光客のあいだで評判になっている。そのメニューは次のとおりである。
〇ステーキ 六〇〇円 〇タツタ揚げ 五〇〇円 〇サシミ 三五〇円 〇油いため 三〇〇円 〇煮つけ 三〇〇円 〇みそ煮 二〇〇円 〇湯かけ 二〇〇円
一部の地域では食用として利用しているところもあるが、まだ一般的に食用とするには解体、保存、料理法等に問題点があり、研究の必要がある。
昭和五四年度には島内でも試食会や料理法の研究が方々で行われた。勝本でも漁協婦人部の主催で試食会を行なったが、すこぶる好評だった。今後のイルカ駆除対策と合わせて、食用として有効利用ができるよう、大いに宣伝啓蒙することが必要である。

九、イルカ裁判

ケイト事件
昭和五五年二月二九日の夜半のことである。イルカ一三〇〇頭が蓄養されている勝本港外の辰ノ島に、一人のアメリカ人がひそかに渡った。男はイルカを囲っている仕切網のロープを切って、イルカを逃がす。夜ふけて海は大時化(しけ)となり、男は逃げるに逃げられず、島で一夜を明かす。そして翌朝、作業員に発見される。
威力業務妨害の疑いで、壱岐署に任意同行を求められ、事情を聞かれると、男は「イルカを自由にしてやるためにやった」とうそぶく。
苦労してイルカを追い込んだ漁民には寝耳に水の出来事。それがわざと述したと聞いて、アメリカ人の姑息な手段に、浦中がいきりたつ。――
イルカは今年に入って三回、約一六〇〇頭が捕獲され、このうち三〇〇頭が処理されている。辰ノ島の入江には約一三〇〇頭のイルカが残っていたが、網を切られて約三〇〇頭が逃げたとみられている。
ところでこのアメリカ人は、アメリカ・ハワイ州ヒロ市出身のデクスター・ロンドン・ケイト(三六歳)。調べによると、二月二九日午後一〇時頃、勝本港外の馬場先から一人でゴムボートに乗って、約一・二㌔沖の辰ノ島へ渡った。そしてナイフでナイロン製網を切りさき、ロープのボルトをはずし、イルカ約三〇〇頭を逃がす。同夜の海は春一番が吹き荒れていた。ケイトは勝本港に帰ろうとしたが時化のため帰れず、無人の同島で一夜を過ごす。
一方、勝本にはケイトの妻が残っていたが、連絡が途絶えたため心配になり、福岡市のアメリカ領事館に電話で救助を求めた。翌三月一日朝同領事館から長崎県警への連絡で、壱岐署と唐津海上保安部壱岐分室で捜索の準備をしていた九時すぎ、今度は勝本漁協から「イルカの処理作業に出かけた漁民らが、辰ノ島で外国人一人を発見、漁協に連れ帰る」との通報があった。
こうしてケイトは逮捕される。ケイトは環境保護団体「地球共存会」のメンバーで、壱岐には二月二四日、妻スーザン(三七歳)や長男パニヤ(一歳一ケ月)とともに来島、イルカの実態調査をしていた。

ケイト事件の背景
ケイトのイルカ逃がしの動機は裁判の過程であきらかになるが、その背景はどんな様子であったのか。
勝本のイルカ騒動は、昭和五三年二月二二日、勝本漁民が一〇一〇頭のイルカを辰ノ島に追い込んだことに始まる。
この時の処理状況が写真つきニュースで世界中に報道されたことから、アメリカ、イギリス、カナダなど一一ケ国以上から抗議電報が大使館などに殺到した。これに対し国は昭和五三年から三ケ年計画で、音波などによるイルカ駆除研究事業(総額一億円)を始めたり、長崎県もイルカ短期蓄養施設を油目瀬戸に造って、浜で殺さないよう注意するなど海外の非難をかわす対策をとった。このため世界的な騒ぎは一時鎮静化していた。
アメリカの有力紙の一つ「ポルチモア・サン」は昭和五五年二月二九日付の三面で『抗議にもかかわらず日本漁民、イルカ殺りくを主張』と派手な見出しで、東京発のAP通信の記事を載せている。西海岸ではサンフランシスコ・エキザミナー紙が「ナイフやこん棒でイルカを殺したあと、肥料にするため一四万㌦する圧さく機で、こなごなにつぶされている」といった趣旨を報じている。ラジオも二七日から二八日にかけて全米各地で「あたりを血でそめた」といった形容つきで報道した。なにしろ勝本で取材するのが動物愛護でこりかたまった外人で、イルカを人間と同じにみなしイルカ殺しは殺人と同一に考える連中である。だから漁民の立場など判ろうはずもなく、自分達の主張に都合のよい記事を送ったのである。だいたいイルカをこん棒で殺せるものだろうか。ナイフで殺したというのは血抜きのために使用した包丁のことであろう。

漁民の対応
イルカ逃がし事件が発覚したとき漁民の怒りはすさまじかったが、その怒りを鎮めながら実に冷静な対応をした。三月一日、辰ノ島にいるケイトを、捕獲処理作業に向かった漁民が発見したとき、高浜総代会議長らは「暴力ざたにならないように」と直ちに漁協に連れ帰った。漁協に怒った漁夫ら十数人が詰めかける場面もあったが、小畑専務らの説得で鎮まった。
事件発生後、漁協や警察には犯人ケイトの身辺を気づかうアメリカ領事館や外国通信社の動きもあったという。しかし壱岐島内で数日間を過したケイトらに対しては、いやがらせなど全くなかった。「諸外国から野蛮人のようにいわれ続けている勝本漁民だが、この憤りの中でも、冷静に対応してきた点を認めて欲しい」とは小畑専務の言葉である。

起訴
ケイトは壱岐署から威力業務妨害や器物損壊の容疑で書類送検された。ところが一時帰国したいと本人がもらしたので、長崎地検は三月八日、佐世保支部にケイトの身柄を移し本格的な取調べに入った。
同地検は当初略式起訴、罰金という穏便な手続きで済ます予定であったが、ケイトは「私は殺されかけた人間を助けるのと同じようにイルカを助けた。正しいことをしたのだから罰金を払うつもりはない。堂々と法廷で争う」といって応じようとしないので、起訴に踏み切り、九日長崎地裁佐世保支部に起訴一〇日間の拘留が認められた。
ケイトのいい分では、壱岐の漁民はイルカを殺しているのではなくて、殺人を犯しているよう思い込んでいる節さえある。
一方漁協では、役員会で損害賠償の起訴要求を保留し、壱岐郡イルカ協議会(吉永代表)で検討することとなった。損害の主なものは、イルカを囲っていた網の被害が二〇〇万円、イルカを捕らえるのにかかる経費が一頭あたり三万円で六〇〇万円など、石井敏夫参事は「我々としても国際問題には気を使うが、これだけの損害を漁民感情としてだまっておれない」といっている。
三月一三日の県議会農林水産委員会でもイルカ問題が取りあげられ、小松水産部長の言は前述したとおりで、漁民保護優先の立場で望む考えを示した。休憩時間に香椎組合長が被害状況を訴えるとともに今後も捕獲に力を入れる考えを力説した。

裁判
初公判は昭和五五年四月八日に行われた。「地元では商人だって無関心じゃおれない。魚がとれないと生活に響く」商用で博多にきたので佐世保まで足をのばしたという壱岐勝本の西崎さん。「事件を起こしたことは残念だが、日米親善のため最少限の摩擦で終って欲しい」は福岡市のアメリカ領事館イマン・ヘスティング副領事。被害者である勝本漁協からは香椎組合長ら五人が前夜から佐世保入りした。
初公判は午前一〇時から始まり、人定質問の後、門西栄一検事が起訴状を朗読した。ケイト被告は罪状認否で「イルカを逃した事実手段はなんら争わない」と行いは認めたものの「壱岐の漁民がイルカを殺している。イルカは有害水産動物ではない。捕獲処理は不法である」と主張した。ケイト側のいい分は次のとおりだ。
⑴壱岐漁民が行なっているイルカ捕殺は漁業法に違反する無免許操業。
⑵場所も壱岐・対馬国定公園に入り自然公園法にも違反。
⑶違法な操業であり正当な業務ではない。故にケイトの行為は威力業務妨害罪に該当しない。
これが無罪主張の理由である。
午後から香椎組合長が検察側証人調べで証言を行なった。
同日、衆議院外務委員会で土肥タカ子議員(社会)からイルカ捕獲問題で質問を受けた大来外務大臣は「これまでのように諸外国の非難にたんに頭をさげるのではなく、わが国の立場も強く主張し、イメージダウンの防止をはかりたい」と答えた。
五月八日の三回公判廷で証言にたった石井参事と被告ケイトの論争。ケイト「イルカは死ぬとき悲しそうな顔をすることを知っているか」。参事「その辺のことはイルカに聞いてもらわなくては」と精一ぱいの皮肉。ケイト「ハワイでは人間とイルカが会話をする実験が行われている」とたたみかけると参事は「それができるのならぜひ教えて欲しい」と切り返し静かな法廷は一時笑いにつつまれた。
対馬の漁民も支援に訪れた。対馬全島二五漁協組合長会の扇豊崎漁協長は「同じ海域で操業している漁民として黙っていられない。全島組合長会で対馬の漁民も壱岐漁民を応援することを決議し、三人が代表できた。漁民生活を脅かすイルカは大いに殺さねばならない」と述べた。
勝本町の川谷幸太郎町議会議長も「自然を守ることの大切さも判るが、人間生活の方を優先すべきだ」ときっぱりいう。
ケイト弁護の大論陣を張ったオーストラリアのピーター・シンガー教授と検察官、裁判官のやりとりを再現してみる。

門西検事
教授はイルカは有害でないという。では教授のいう有害の意味は?
教授
人を殺したり傷つけたりするもの、たとえばマラリア菌を運ぶ蚊は有害だ。
検事
ライオンやトラは?
教授
人を傷つける場合に有害といえる。
検事
ではある動物が人間の食料を食べてしまう場合はどうか。
教授
その動物の存在で人間が飢餓状態に追い込まれる時に限って有害といえる。
検事
イルカを捕殺しているのは日本だけか?アメリカでは網にイルカがかかり死ぬことを知っているか?
教授
知っている。しかしイルカを殺さないようアメリカでは適法の研究が続けられている。
検事
現実にマグロ漁をすればイルカが網にかかり死ぬことをアメリカ漁民は知っている。あなたの論法でいえばマグロ漁をやめなければならないが……。
教授
アメリカではイルカが死んでいるが、漁民が殺してはいない。
検事
イルカは野生動物で高等動物だから人間が殺す権利はないと主張されるが、高等動物でなければ殺してもいいのか。
教授
場合による。人に危害を加えた場合だ。
検事
人間と生存競争するものであれば、人間はその動物を殺してもいいのか。
教授
常にいいとはいえない。もし殺すときは苦痛を与えないよう即死させるべきだ。
検事
というと即死させれば殺しても構わないことにつながるが……。イルカに苦痛を与えない殺し方を教えて欲しい。
教授
私は知らない。
亀井裁判官
野生動物は殺しては駄目、家畜なら殺してもいいといわれる理由を聞かせて欲しい。
教授
家畜は人間が飼い人間によって生を受けているもので、人間に所有権があるからだ。
裁判官
イルカと人間が魚を交互に分ちあって共存することは可能か?
教授
壱岐の人達は五年ぐらい前まで共存していた。
裁判官
問題は最近のことだ。イルカが漁場に現われ漁獲が減っているといわれているが……。
教授
それは人間が自然に対してなした行動が原因だ。過剰な漁と海洋汚染だ。
裁判官
教授はイルカは人間なら二歳以上の知能を持っているといわれるが、人間の場合二歳といえば他人の嫌がることをしないなど分をわきまえるが、イルカはできない。人間とイルカは本質的に違うのではないか?
教授……。
裁判官
イルカを高等動物とあなたはいうが、イルカは毎年同じように漁場に現われ、千頭単位で捕獲されている。またイルカ同士会話ができるというが、それではなぜイルカ同士話しあって捕まらないようにできないのか。
教授
私はなぜイルカが毎年漁場に帰ってくるのか知らない。他の漁場が汚染され、やむなく戻ってくるのかも知れない。
裁判官
本当に素朴な質問を浴びせてすみません。
五月二三日、二四日午前一一時から公判。二五日には論告求刑が開かれ、検察側は被告ケイトに懲役八月を求刑した。

判決
判決公判は五月三〇日長崎地裁佐世保支部で開廷された。判決は被告ケイトに「懲役六月に処する。ただし判決の日より三年間の執行を猶予する」というものであった。
「イルカは高等動物であり殺してはいけない」と主張する被告側の意見を退け、漁民が捕獲していたイルカ群を逃がしたケイト被告に有罪がいい渡された。イルカに漁場を荒らされ、やむを得ずイルカを捕獲処理する漁民の立場は背定されたわけだ。
この裁判が注目を集めたのは、外人犯罪というだけでなく、壱岐のイルカ捕獲に三年越しの国際非難があるなかで、漁民の立場、自然保護の立場が法廷に持ち込まれたことだった。しかし証人の壱岐漁民がイルカ被害の深刻さを訴えたのに対し、ケイト被告とその支援の証人は「人間とイルカは助けあって生きられる」と水産資源に頼る日本の食習慣や漁民の暮しを無視した独りよがりの論理に終始した。
論争は最後までかみ合わず、保護を主張するケイト被告にもどうすれば共存できるかという具体的な知恵はなかった。だが漁民の立場が背定されたとはいえ、いつまでもイルカ捕獲処理を続けてもよいものかどうか。水族館等で人気者になるイルカを捕殺することが最善策だとは誰も思っていない。だから勝本漁民も悩むのである。
その後ケイトは三日、控訴を断念、福岡入国管理事務所を通じて地裁佐世保支部に「控訴の権利を放棄する」と伝えた。同支部はこれを受理しケイトの刑が確定した。福岡入国管理事務所は五日、ケイトをハワイ州へ強制送還してこの事件は一応の解決をみた。
(この項の大部分は「西日本」「長崎」「朝日」「毎日」「読売」「防長」の各紙に報道された記事を参考にしてまとめたものである)


 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社