天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史98

勝本浦郷土史98

 

運営に悩んでいた。当組合も、資金の運営に困り、漁業者の水揚げ代金の支払いにも支障を来すようになった。従って、借入金に頼らざるを得なくなり、県信連、十八銀行、九州相互銀行、勝本農協等に依頼したが、各機関共に、組合の経営状態には警戒して貸付を渋り、申し訳的に僅かな金額しか貸さなかった。その当時、農協信用部は、三〇年の歴史を持っていた。貯金残高も郡内では一位であった。農協信用部がこのような経営状況の中で、漁協もできない筈もなかったのであると思われるが、何時の時代でも金融機関の争奪は費しかった。十八銀行は、毎日外務員を派遣していた。福岡銀行、九州相互銀行の両出張所も黒瀬の中央にあった。そうした中に漁業協同組合は、創業して日猶浅く、こうした金融機関と対抗して、信用部を創設するまでには、いまだその機が熟していなかった。仕方なく、地元の個人より、月二分又は、二分五厘の高利にて、金を借りて運営する状態であった。その当時の組合の役職員も今日と違って、大変苦労したものである。当時、月二分以上の利息を払って、組合運営をしても僅かの手数料で、堅実な運営ができる筈もなかったが、そこまで追い詰められていたのである。このような時であっただけに、早く信用事業を着手しなければならないのであったが、開始して軌道に乗るまでには、考える以上にむずかしい問題が多くあった。それは、預金するにしても、貸出しするにしても、相手を信ずる事が最も要求されるのが金融業であり、預貯金する人の心理でもあるが、水揚代金の仕切りも心配しなければならない組合に、信用部を開設しても、他の金融機関の預貯金を鞍替えする事は容易に考えられない。

強力な貯蓄運動の展開
 それでも昭和二八年、県信連等の支援もあって、信用部事業は誕生したのである。この事業には、熱心な経験者を必要とした。時の町長斉藤政平は、勝本農協の理事として、農協の貯蓄奨励に活躍していた。岩谷末太郎氏を主任として起用する事を組合にすすめ、その態勢ができたのは、二八年九月であった。昭和三〇年には、前の漁協(今日の郵便局)川崎嘉一郎所有の敷地を譲りうけ、三一年事務所を増築して、信用部を一新して「漁業者の貯金は漁協へ」のスローガンを掲げて戸別訪問、各部落の懇談会等、強力に貯蓄運動を展開した。こうした事から漁業者のための、自分達の信用部であるという組合意識が高まり、貯金も順調に伸びていった。間もなく、福岡銀行も九州相互銀行も支店を閉鎖したため、その影響で急速に、漁協信用部貯金も増加するようになった。これは漁協信用部が急速に伸びたために、九州相互銀行も福岡銀行も、制圧したことを意味するものである。
 昭和三五年、国において、沿岸漁業整備促進法が実施され、組合員の漁船建造及び、設備資金の貸付等、比較的に簡単に借り入れが出来るようになり、このために漁船も、次第に大型化、スピード化されるようになり、水揚げも逐次上昇していった。しかし、その反面には、漁家の経済は矢張り、板一枚下は地獄という、昔からの譬のように、危険な仕事であるだけに、生活面にも漁民の一荷捌きという、無計画な生活が多く見られた。

漁協婦人部の活躍
 そこで漁協婦人部の活動を利用して、月給制が実施されたのである。その内容は、漁業者の水揚げ代金を、一応全額信用部の預金に振り替え、それを毎月金額を定め月給として、生活費に支払う制度であった。これこそ漁民の生活改善の一大変革であると、自分も当時思った程である。しかし、急速なる景気の上昇と、漁民に月給制はなじめず、収入のあった時は消費し、収入の少ない時は質素な生活に我慢する、昔からの培われた慣習は根深く残り、直すことはむずかしく、月給制も一時はよろこばれた時代もあったが、自然消滅という結果に終わってしまったが、月給制の折の婦人部の日記帳の方法、月給制の頃の無駄な金は使えない、始末しなければならないという、月給制の頃の婦人部の教育は実を結び、貯蓄心を涵養し、預金は年毎に高くなり、僅かに二〇年足らずにして、県下でも優秀な漁協信用部となったのである。
 昭和四六年には、勝本町も地元に信頼される信用部が誕生した事により、勝本町も十八銀行指定金融機関を廃して、勝本漁協信用部本町の指定金融機関として指定し、名実共に勝本町の金融機関としての使命と責任を持つようになった。昭和四七年には、寿楽荘(長島邸)二二〇坪を買収して、四九年現在の漁協信用部と、漁民センターと駐車場を、勝本中央部に建設したのである。内部の近代化に於いては、昭和四八年に電算機の必要に迫られ、高度な電算機を導入した。しかし、六年後には多様に複雑化する金融状勢に対応するため、昭和五五年に単協独立の、コンピューターの導入を実施した。昭和四七、八年頃から、日本海のイカ漁が盛んになり、益々漁船は大型化され、平成元年には漁船数も七〇〇隻を越え、信用事業も貯金高は七四億円を越え、貸付金は四九億円とそれぞれ急速な伸長を遂げている。斯うした発展は、役職員のたゆまぬ努力は勿論であるが、漁協婦人部、青年部の協力も大きな力となっている。しかし反面、昭和五六年頃まで、盛況を続けていたブリ漁も近年とみに少なくなり、漁民を失望させている。この

結して、七里ヶ曽根に、ブリの飼付をやるというような、智恵というか、対抗手段は考えられなかったのであろうか、只実力行動によって、飼付全廃を叫んで、児童の登校拒否、税の不納や、町内をゼネスト等の、示威行動をした。
 反面実力者に頼り、支庁、県庁、飼付会社に、勝本の漁民の窮状を強く訴えたが、県としては一度許可した事業である、勝本漁民の苦しみは十分察知しながらも、簡単に全廃するのは不可能として、七里ヶ曽根にブリ飼付漁を許可する事にした。昭和五年九月、早速香椎村漁業組合とは別に、純漁民による、勝本ブリ飼付組合を創立して、操業を開始した。これが勝本漁業協同組合という、自らの手によって、創設した組合組織の始まりであり、世の趨勢でもあったのである。

壱岐ブリ飼付組合との対立
 大正の中期より後期にかけて、鹿児島県で開発された新しい漁法であるブリ飼付は、その好況が伝えられ、忽ち日本国中に広まった。壱岐においても壱岐郡ブリ飼付漁業株式会社が設立され、事業を開始したが、それは壱岐の資本家だけによって組織されていた。免許範囲も壱岐の近海のほとんどに渡り、勝本町内の沖合火棚曽根も、鯨伏村の沖合のナンカケ曽根も範囲に入り、ただ七里ヶ曽根が残るのみであった。七里ヶ曽根は昔からブリの他魚類の宝庫といわれていた漁場であるが、盛んに撒き餌して魚を一定の場所に寄せるため、七里ヶ曽根のブリ等もほとんど餌付けされ、こうした状態の中で出漁してもブリは全くとれず、飼付会社の豊漁を傍観するばかりであった。特にその時代七里ヶ曽根の秋の夜釣りは、勝本の漁業の八割を占めていた。
 漁民は苦境のどん底に立たされ、生活は日々に苦しくなり、毎日飼付会社の豊漁を目前に見せつけられる勝本漁民の憤選は甚だしく、漁民でない資本家の組織する飼付会社に、壱岐の漁場の殆どを許可した、県当局の不明を恨んだ事は無理もない事であった。そして会社を設立してそれに加入し重役の地位にある、勝本浦の有志家に対する反感の声は、巷に満ち激しい漁民の怒りは爆発の危機を孕んでいた。当時の漁民総代沖世話人は、毎日集会を開き飼付の全廃運動を企て、その当時飼付会社の部外者であった篠崎清吉、原田元右衛門両氏の協力をうけ、支庁県当局に陳情を重ねたが、一度許可した県の意志は固く、漁家の生活は益々悪くなるばかりであった。

飼付の全廃を呼んでゼネストを行う
 このような事情から漁業者の子弟は、同盟休校及び税の不納を短期間であったが実施を余儀なくされた。漁船は連日出通せず、不平不満やり方なく漁民感情はその極に達した。その頃都会より帰勝していた血気の青年三名は、勝本浦の現状を見るに忍びず、勝本の大勢の青年を動員して、蓆旗を押し立て、飼付全廃をスローガンに、勝本浦中を労働歌を歌い叫んで浦中を練り歩いて示威運動を行った。筆者等も始めて見るデモである。首謀者三人は社会主義思想者と見られ、警察に連行された、その時代は軍部が政治に介入し、社会主義者は注目されていた頃である。このような勝本浦の動きを重視した郷ノ浦警察署は、毎日多数の刑事を勝本に派遣して警戒した。昭和四年九月二三日、壱岐郡ブリ飼付会社の重役会議が郷ノ浦清月館で開かれた、勝本の漁民総代及び沖世話人は、その会議に出席し勝本漁民の窮状を訴え、生活救済資金を要請する事を決めた。これに対し勝本浦西部青年会は、集合して協議、その交渉を不満として、この際強硬なる交渉に出て、全廃に持ちこむべきであるとして、当日青年一同は各町より漁船一隻宛出して、郷ノ浦の会場に乗りこみ、重役会議に青年会として交渉し、是非飼付全廃に全力を尽くすことに決定、明けて二四日、西部青年会員は、七隻の船に約二〇〇名の青年が乗りこんで郷ノ浦に出航した。午前十時頃郷ノ浦に入るが、会議は午後からという事で、船に待機していたところが警察の知るところとなり、各町の青年会長及び副会長は、全員本署に連行され、取り調べをうけた。後に残る青年達は、清月館に押し寄せる途中で、警察署員に阻止され、小ぜり合いはあったが、結局船に追い返され、何等目的を達する事は出来ず、帰勝したのである。会長、副会長十数名が本署に連行されたので、統率する指導力がなくなり、どうする事も出来なかったのである。しかしこの事件は当日は何の効果もなかったが、子供の同盟休校や納税不納の申合せ等を含めて、大きな社会問題として、世の注目を集める事となり、県としても既免許場の内火棚曽根とナンカケ曽根等三カ所をその後解放したが、さかんに撒き餌をやる飼付には及ばず、結果的にはブリは飼付けられたと何等変わらず、勝本の不漁は続いた。結局漁民総代沖世話人の交渉により、救済資金として三〇〇〇円の贈与をうけて、その一部を飼付全廃運動資金として使用し、残りを漁業者の生活資金に配分した。その後再度県当局に飼付全廃を陳情したが、県としては、飼付は有望な新規漁法として許可したものであり、全廃は大勢より見て不可能であるとして、全廃には応じてくれなかった。

 

 

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社