天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史99

勝本浦郷土史99

七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立
 県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。
 後日県水産課よりの話では、七里ヶ曽根は当時欧州航路の汽船の需要航路であり、国としては免許に難色を示したが、勝本漁民の実情を県としても国に強く訴え、許可されたものだという事である。組合が発足し組合長に大久保平三郎を推して、特別飼付業権免許を申請し、昭和五年九月大久保平三郎外二六一名に対し、ブリ飼付特別業権免許証が交付された。この免許証は昭和九年大月県の指令により、勝本漁業組合に譲渡する、以後は勝本漁業組合より免許を借り操業して、毎年の借入料五〇〇円を支払って操業する。
(註)これは昭和七年四月香椎村漁業組合を分離して、別に長島俊光を組合長として、勝本漁業組合を設立したためである。ブリ飼付組合とは異なるものである。飼付漁業組合の組織の大要としては、組合員は勝本浦に存住している純漁業者を以て組織し、年齢は尋常高等小学校を卒業した者より、満六〇歳までの漁業者を以て組織する、組合員数四五九名(昭和五年設立当時)漁船は動力船全部を雇い入れるものとする、飼付の釣り船には焼玉エンジン発動船六馬力以上を使用し、発動船五馬力以下モーター船は、釣船には使用しない。(昭和五年当時の動力船六七隻内運搬船四隻含む)五馬力以下は組合員の八合の割で支結する。(次年度より変更する)
 配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿岸漁業は、特に不振の時代であった。だが勝本の漁民のみは、飼付の連日の大漁により、給料あり、配当金あり、飼付当番以外の自由操業も出来るようになり、その収入ありで、非常に豊かな生活が出来るようになった。
 こうして毎年豊漁が続いていた飼付事業も、昭和十五年頃より漁獲も減少するようになった、減少の理由として種々な風評もあったが、何より戦争のため、餌用イワシが入手が困難となった事があげられている。こうして昭和十六年、事業中止のやむなきに至ったのである。
 しかし勝本の飼付事業の実績が認められ、下関船喜商店、油政商店等と合同事業として、郡外各地数カ所に、世話人釣船舟子等を提供して、飼付漁業を操業しているが、内容は省略する。
 幸いにして、昭和五年より十年余に亘り、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらした。
昭和七年四月、謙業組合の性質上、純漁村の純漁業者のみを以て、組織すべきであるという趣旨のもとで、香椎村漁業組合と分離して、勝本漁業組合を設立、初代組合長に、長島俊光を推選した。その折地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニ、カゼ、海藻類の採取については、将来共に漁業者以外の者でも、採取出来るという条件で分離が成立した。

勝本漁業共同組合設立
 時代の趨勢に伴って、組合員の福利増進を計るためには、経済事業を推進すべきであるという、考え方が組合の幹部及び、組合員の中に根付いて、組合員の出資金制度によって、組織の運営を諮るために、組織の設定を樹立して、県に申請した。県の指導員が派遣され、設立委員を推選して、県の指導をうけて、昭和十一年六月に、保証責任、勝本町漁業協同組合の設立が認可された。出資金、一口三〇円の外に、保証金二〇円として、組合長に立石幸吉を推して、発足した。当時加入した組合員数は、三七四名、出資口数は四八六口である。早速事業を開始する事となり、同十一年に製水事業、続いて、販売購買事業、船舶、イカ加工等の事業に着手する事になった。
 昭和十年、香椎村は勝本町と改称した為に、香椎村漁業組合も、勝本町漁業組合と改称した。昭和十六年県の指令により、勝本漁業協同組合は、勝本町漁業組合を吸収合併する事になった。その折の条件として、今後在部農家、その他の人でも漁業に従事し、漁業協同組合に入会の希望者は、いつでも入会できるという条件を付して、合併が成立し、以前の香椎村を改称した、勝本町漁業組合は、正式に解散したのである。
 斯くして、勝本漁業協同組合が設立されるや共同販売事業のための、荷捌所及び、組合事務所の建設、

 

七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立
 県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。
 後日県水産課よりの話では、七里ヶ曽根は当時欧州航路の汽船の需要航路であり、国としては免許に難色を示したが、勝本漁民の実情を県としても国に強く訴え、許可されたものだという事である。組合が発足し組合長に大久保平三郎を推して、特別飼付業権免許を申請し、昭和五年九月大久保平三郎外二六一名に対し、ブリ飼付特別業権免許証が交付された。この免許証は昭和九年大月県の指令により、勝本漁業組合に譲渡する、以後は勝本漁業組合より免許を借り操業して、毎年の借入料五〇〇円を支払って操業する。
(註)これは昭和七年四月香椎村漁業組合を分離して、別に長島俊光を組合長として、勝本漁業組合を設立したためである。ブリ飼付組合とは異なるものである。飼付漁業組合の組織の大要としては、組合員は勝本浦に存住している純漁業者を以て組織し、年齢は尋常高等小学校を卒業した者より、満六〇歳までの漁業者を以て組織する、組合員数四五九名(昭和五年設立当時)漁船は動力船全部を雇い入れるものとする、飼付の釣り船には焼玉エンジン発動船六馬力以上を使用し、発動船五馬力以下モーター船は、釣船には使用しない。(昭和五年当時の動力船六七隻内運搬船四隻含む)五馬力以下は組合員の八合の割で支結する。(次年度より変更する)
 配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿岸漁業は、特に不振の時代であった。だが勝本の漁民のみは、飼付の連日の大漁により、給料あり、配当金あり、飼付当番以外の自由操業も出来るようになり、その収入ありで、非常に豊かな生活が出来るようになった。
 こうして毎年豊漁が続いていた飼付事業も、昭和十五年頃より漁獲も減少するようになった、減少の理由として種々な風評もあったが、何より戦争のため、餌用イワシが入手が困難となった事があげられている。こうして昭和十六年、事業中止のやむなきに至ったのである。
 しかし勝本の飼付事業の実績が認められ、下関船喜商店、油政商店等と合同事業として、郡外各地数カ所に、世話人釣船舟子等を提供して、飼付漁業を操業しているが、内容は省略する。
 幸いにして、昭和五年より十年余に亘り、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらした。
昭和七年四月、謙業組合の性質上、純漁村の純漁業者のみを以て、組織すべきであるという趣旨のもとで、香椎村漁業組合と分離して、勝本漁業組合を設立、初代組合長に、長島俊光を推選した。その折地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニ、カゼ、海藻類の採取については、将来共に漁業者以外の者でも、採取出来るという条件で分離が成立した。

勝本漁業共同組合設立
 時代の趨勢に伴って、組合員の福利増進を計るためには、経済事業を推進すべきであるという、考え方が組合の幹部及び、組合員の中に根付いて、組合員の出資金制度によって、組織の運営を諮るために、組織の設定を樹立して、県に申請した。県の指導員が派遣され、設立委員を推選して、県の指導をうけて、昭和十一年六月に、保証責任、勝本町漁業協同組合の設立が認可された。出資金、一口三〇円の外に、保証金二〇円として、組合長に立石幸吉を推して、発足した。当時加入した組合員数は、三七四名、出資口数は四八六口である。早速事業を開始する事となり、同十一年に製水事業、続いて、販売購買事業、船舶、イカ加工等の事業に着手する事になった。
 昭和十年、香椎村は勝本町と改称した為に、香椎村漁業組合も、勝本町漁業組合と改称した。昭和十六年県の指令により、勝本漁業協同組合は、勝本町漁業組合を吸収合併する事になった。その折の条件として、今後在部農家、その他の人でも漁業に従事し、漁業協同組合に入会の希望者は、いつでも入会できるという条件を付して、合併が成立し、以前の香椎村を改称した、勝本町漁業組合は、正式に解散したのである。
 斯くして、勝本漁業協同組合が設立されるや共同販売事業のための、荷捌所及び、組合事務所の建設、

十三年には船具漁具類の購買事業、石油類の共同販売事業、スルメの共同加工事業、十四年には、石油類購買部事務所の建設、水産倉庫の建設等、次々と組合員の要望に応えて、設備を充実していった。
 又、昭和十三年には、運搬船の建造を計画した、その頃は夏いか釣りの、無動力船も数多くいた、その和船を魚場まで曳航したり、ときには救助船としての必要があり、共同曳船及び、救助船という名目で、県に申請して補助を受けた。
 昭和十三年十二月着工、十四年四月進水、しかし昭和十八年太平洋戦争激化中に、軍部より徵用をうけ、南方へ航行中、台湾付近で爆撃をうけ、沈没したのである。乗組員の平田鶴太郎船長外、四名が戦死された。
 漁業協同組合設立以来、急速に種々の事業を開始し、順調な経営を続け、事業も進展しつつあった。しかし十六年より、太平洋戦争に発展し、世相も一変した。戦争により、召集徵用等、多数の青壮年者は、戦場に出て行き、漁業者はほとんど老齢者のみとなった。従って漁船の大半は、売却する等して、勝本の漁業の様相も変転したのである。
 昭和十九年に、国家総動員法の発令となり、勝本漁協にも、昭和十九年五月解散命令が発令せられ、保証責任勝本漁業協同組合は解散した。

勝本町漁業会となる
 昭和十九年度に、漁業協同組合解散されるや、早速漁業会組織の指令が出された。漁業会結成の計画は、早急に行われ、十九年六月に設立し、総会が開催された。七月に認可され、八月に登記を完了し、国家総動員法に基づいて、大政翼賛政治による、国への協力機関として、勝本漁業会は発足した。役員は全員(官選となり、)会長には勝本町長吉田覺太郎、理事に町助役永元久造、漁民側より立石幸吉、平畑福次郎、松尾常太郎の三氏が任命された。
 昭和二〇年、八月戦争は集結し、召集徴用に出て行った組合員も、徐々に帰郷し、漁業に従事したが、漁船は少なく、中古船等を探し求めての出漁である。その上漁具はもとより、燃料その他の資材も不足し、困難な時代であった。漁業会としても、事業以外に、国の指令によって、物品の配給機関として、漁業用資材はもちろん、其他衣程品、日用品まで配給していたのである。あらゆる物質は欠乏し闇取引が横行した。特に引揚者は住むに家なく、働くに職なく、仕方なくするめいか、ブリ等の魚を、福岡等に警察の目を逃れて、二倍三倍の値に売って闇商売をして、生活する者が多かった。
 ブリ二、三本かくして福岡まで、往復運賃を払っても、どうにか貧しい生活を支えて行くことができた。その位に都会の物質は欠乏したのである。お金はあっても品物が無いのである。
 漁業会としても集荷した魚を、公定価格で売っても、組合員の利益は僅かである、闇値を知っている組合員の不平不満に、漁業会としても仕方なく、横流しして少しでも多くの利益を得ようとした。組合の共販体制も崩れ、船で直接福岡まで持って行く者が、多くなったからでもある。
 仕方なく組合としても、闇値にて仲介業者と取引して、計算方法は一度公定価格で仕切り、闇値の差額は、出荷奨励金の名目で、後で総代を通じて支払ったりした。闇値で売買した事が発覚して、組合長は何度も警察に呼び出され、留置されて取り調べを受けた事もあったという。

充電所の設置
 漁船の集魚灯は、昔は薪を金網に乗せて焚いていたが、それが石油ランプになり、大正の中期頃よりガスランプを使用するようになった。ガスランプは昭和二〇年頃まで続いた。終戦後バッテリーが普及した、バッテリーを充電する店も、勝本で二、三軒あっだが、漁業会で充電所の設置の要望が強く、充電事業を設置することになり、建物は名鳥島の旧兵舎の払い下げをうけて、仲折の弁天西側に設置した。昭和二三年事業を開始し、順調に経営していたが、昭和三〇年頃より、集魚灯として発電機が導入され、各船に急速に発電機を揺えつけるようになったので、昭和三二年充電所は閉鎖された。

漁業協同組合として再発足
 昭和二四年、勝本漁業会にも、ついに解散指令が出され、再度漁業協同組合が設立される事となった。漁業会としても、直ちに整理に着手して、精算委員会を設け、余剰金は組合員に配分する事にして、その配分金は、組合員としての出資金に充当した。続いて協同組合の設立委員会を結成して、委員長には、村川幸平氏を推薦した。昭和二四年八月十一日、漁業協同組合設立総会を開催、組合長に平畑福次郎を選出し、茲に勝本町漁業協同組合は再発足した。同年八月三一日、県水産指令、第二三九四号をもって、認可され、十月




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社