天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史100

勝本浦郷土史100

あった。従来の定款を変更して、役員の定款を理事五名を七名とし、任期を理事三年、監事二年であったのを、理事監事共に二年に変更した。このような経過で、勝本町漁業協同組合は発足し、現在に至っている。
 昭和五年九月、香椎村漁業組合とは、別に、県の指導によって、勝本ブリ飼付組合が漁民によって、始めて創立せられ、組合の基礎が出来てより、十九年の間、幾多の曲折を経て、昭和二四年八月、再び勝本漁業協同組合として再発足してより、約四〇年間、歴代の組合長初め、組合役員の努力と組合員の為の組合であり、組合員あっての、組合という両者の自覚と協力により、又、青年層のあらゆる具法の研鑽によって、漁業の危機を切り開いてきた。又、李承晩ラインに次ぐ、五二年頃からの各国競っての二〇〇海里の漁業水域の設定は、漁場水域は狭められ、海の魚は無限とまで思われた魚族も、乱獲や海洋汚染等のためか、沿岸も、遠洋も、極度に魚類が減少し、それに加えて、年々際限もなく殖え続ける漁船の激増は、喜ぶべきであろうか、憂慮すべき事であろうか、港は狭くなり、町の港湾漁港計画も、漁船の増加には順応しきれず、後手後手になって、町も港造りに努力して、今日では漸くにして、繋船施設の整備もなされ、ある程度安心して繋船出来るまでに完備された。又二〇トン級の漁船も特殊船団をつくり、日本海イカ漁の豊漁によって、数十隻が遠く金沢、新潟、北海道まで進出して、漁場を求めてゆく青年の進取開拓の気持ちは、評価すべきである。又、時としては、イルカの問題と雄々しく戦い続け、日本国中に、勝本の漁民の名をイルカと共に、その名を知らしめた一時期もあった。筆者も方々の会合に行って、自己紹介する時も、長崎県の壱岐というよりも、イルカの勝本といった方が、皆によく判り拍手をうける、然し何と言っても、筆者の引き揚げて帰った後の勝本浦と、今日の勝本浦の港の全容は一変した。それは勝本だけではない、日本の何処の港も町も、戦後の程済成長によって港湾も漁港も、農村部の道路も、田畑も改良されて、物資も豊かになり、生活も都会も離島も町も田舎も、衣食住においては大差ない。特に家屋においては、ここ二、三〇年の間に、大きく様変わりして、昔のように土間が裏までつづいている家は、僅かである。その位に新築、又は改良されている。これを見ても、勝本の漁業が、今まで不漁を歎きながらも、恵まれた海の幸を享受しているといえよう。実に恵まれた時代に、吾々は生を得ている事を感謝しなければならないと共に、今後も世を挙げて、不漁が叫ばれる時代も訪れて来る事も考え、よりよい生計を維持してゆくように、組合も組合員が一体となって、一層の活路を探し求めなければならない。
平成二年五月記す。

鯨伏漁業組合との合併
 昭和三〇年二月、町村合併促進法によって、勝本町と鯨伏村は合併した。合併時の基本方針として、各民主団体については、つとめて自主性を尊重して、町村合併の趣旨に沿い、統合可能なものは統合し、諸機関の育成強化を図るとしながらも、特に農業協同組合、共済組合及び、漁業協同組合は、当分の間は現状通りとし、組合の自主的決定を俟って統合するとあり、町村としても、農協、漁協に、統合を強く求める意志はなく、あくまで自主的統合を期待していた。しかし県よりは、昭和三三年には合併するように勧奨されていた。それは、昭和三〇年代に入ると、全国的に沿岸漁業の不振が呼ばれるようになった。これは沿岸より沖合にかけての資源の減少によるものであり、回復は困難と考えられた。そこで漁村の不況を打開するためには、経済団体である漁協の合併問題が取り上げられる事になった。
 県においても、水産部の沿岸漁業振興部会で研究の結果、経済基盤の確立した組合を作るべきである、という結論に達した。そこで強力に推進する事になり、壱岐郡でも十二漁協を、五組合にする方針が打ち出された。勝本漁協も昭和三三年頃より、湯の本漁協と合併するように勧奨された。が、種々の事情により、合併は延びたが、昭和三七年一挙に合併の機運が高まった。そこで合併委員会を結成し、三七年十月八日、調印の運びとなり、昭和三八年一月、正式に吸収合併されたのである。そして、湯の本漁協より、正組合員一〇八名、准組合員十名が加入した。昭和三九年には、勝本町当局に要請して、現在の湯の浦を埋め立て、荷捌所、事務所を建設したが、湯の本木落しの道路変更のため、場所を少し変えて、平成四年現在の所に、二階建ての湯の本支所を建設した。

第七節 信用部事業
 昭和二四年、勝本漁業会が、指令によって解散せられ、直ちに漁業協同組合が再出発したが、昭和二五年、朝鮮動乱起こるや、一時的には軍需景気でよい時もあったが、動乱が終わるや、我が国においても、金融凍結の引き締め政策を行い、全国的に急激な不景気が押し寄せた。組合としても、鮮魚外の販売代金である購買代金、充電料立替金、その他の回収が遅れて、決算期には多額の未収入金を出した。こうした事か

に悩んでいた。当組合も、資金の運営に困り、漁業者の水揚げ代金の支払いにも支障を来すようになった。従って、借入金に頼らざるを得なくなり、県信連、十八銀行、九州相互銀行、勝本農協等に依頼したが、各機関共に、組合の経営状態には警戒して貸付を渋り、申し訳的に僅かな金額しか貸さなかった。その当時、農協信用部は、三〇年の歴史を持っていた。貯金残高も郡内では一位であった。農協信用部がこのような経営状況の中で、漁協もできない筈もなかったのであると思われるが、何時の時代でも金融機関の争奪は費しかった。十八銀行は、毎日外務員を派遣していた。福岡銀行、九州相互銀行の両出張所も黒瀬の中央にあった。そうした中に漁業協同組合は、創業して日猶浅く、こうした金融機関と対抗して、信用部を創設するまでには、いまだその機が熟していなかった。仕方なく、地元の個人より、月二分又は、二分五厘の高利にて、金を借りて運営する状態であった。その当時の組合の役職員も今日と違って、大変苦労したものである。当時、月二分以上の利息を払って、組合運営をしても僅かの手数料で、堅実な運営ができる筈もなかったが、そこまで追い詰められていたのである。このような時であっただけに、早く信用事業を着手しなければならないのであったが、開始して軌道に乗るまでには、考える以上にむずかしい問題が多くあった。それは、預金するにしても、貸出しするにしても、相手を信ずる事が最も要求されるのが金融業であり、預貯金する人の心理でもあるが、水揚代金の仕切りも心配しなければならない組合に、信用部を開設しても、他の金融機関の預貯金を鞍替えする事は容易に考えられない。

強力な貯蓄運動の展開
 それでも昭和二八年、県信連等の支援もあって、信用部事業は誕生したのである。この事業には、熱心な経験者を必要とした。時の町長斉藤政平は、勝本農協の理事として、農協の貯蓄奨励に活躍していた。岩谷末太郎氏を主任として起用する事を組合にすすめ、その態勢ができたのは、二八年九月であった。昭和三〇年には、前の漁協(今日の郵便局)川崎嘉一郎所有の敷地を譲りうけ、三一年事務所を増築して、信用部を一新して「漁業者の貯金は漁協へ」のスローガンを掲げて戸別訪問、各部落の懇談会等、強力に貯蓄運動を展開した。こうした事から漁業者のための、自分達の信用部であるという組合意識が高まり、貯金も順調に伸びていった。間もなく、福岡銀行も九州相互銀行も支店を閉鎖したため、その影響で急速に、漁協信用部貯金も増加するようになった。これは漁協信用部が急速に伸びたために、九州相互銀行も福岡銀行も、制圧したことを意味するものである。
 昭和三五年、国において、沿岸漁業整備促進法が実施され、組合員の漁船建造及び、設備資金の貸付等、比較的に簡単に借り入れが出来るようになり、このために漁船も、次第に大型化、スピード化されるようになり、水揚げも逐次上昇していった。しかし、その反面には、漁家の経済は矢張り、板一枚下は地獄という、昔からの譬のように、危険な仕事であるだけに、生活面にも漁民の一荷捌きという、無計画な生活が多く見られた。

漁協婦人部の活躍
 そこで漁協婦人部の活動を利用して、月給制が実施されたのである。その内容は、漁業者の水揚げ代金を、一応全額信用部の預金に振り替え、それを毎月金額を定め月給として、生活費に支払う制度であった。これこそ漁民の生活改善の一大変革であると、自分も当時思った程である。しかし、急速なる景気の上昇と、漁民に月給制はなじめず、収入のあった時は消費し、収入の少ない時は質素な生活に我慢する、昔からの培われた慣習は根深く残り、直すことはむずかしく、月給制も一時はよろこばれた時代もあったが、自然消滅という結果に終わってしまったが、月給制の折の婦人部の日記帳の方法、月給制の頃の無駄な金は使えない、始末しなければならないという、月給制の頃の婦人部の教育は実を結び、貯蓄心を涵養し、預金は年毎に高くなり、僅かに二〇年足らずにして、県下でも優秀な漁協信用部となったのである。
 昭和四六年には、勝本町も地元に信頼される信用部が誕生した事により、勝本町も十八銀行指定金融機関を廃して、勝本漁協信用部本町の指定金融機関として指定し、名実共に勝本町の金融機関としての使命と責任を持つようになった。昭和四七年には、寿楽荘(長島邸)二二〇坪を買収して、四九年現在の漁協信用部と、漁民センターと駐車場を、勝本中央部に建設したのである。内部の近代化に於いては、昭和四八年に電算機の必要に迫られ、高度な電算機を導入した。しかし、六年後には多様に複雑化する金融状勢に対応するため、昭和五五年に単協独立の、コンピューターの導入を実施した。昭和四七、八年頃から、日本海のイカ漁が盛んになり、益々漁船は大型化され、平成元年には漁船数も七〇〇隻を越え、信用事業も貯金高は七四億円を越え、貸付金は四九億円とそれぞれ急速な伸長を遂げている。斯うした発展は、役職員のたゆまぬ努




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社