天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史122

勝本浦郷土史122

家庭の洗剤使用、食用廃棄物の海中への投棄は、婦人部の最も心すべきことであろう。

第十九節 勝本漁業年表(判り易く勝本主要年表別に記した。(主な所は重複している)

寛永 元  深沢組田の浦にて鯨組を創業、網代は辰の島羽奈毛に固定していた。
享保 年間(一七一六ー一七三六) 勝本漁家にマグロ網案出ありと、壱岐郷土史に記せり。
元文 一  勝本土肥市兵衛、独立して捕鯨組を組織する。
天文 一  勝本土肥組、益富組、隔年毎に田の浦及び恵比須に捕鯨をなす。
天保 一一 八 原田光右衛門(二代)捕鯨業を許され、一四年間捕鯨業を経営する。
嘉永 七  原田七之助(五代)捕鯨業を許可され、元治元年(一八六四)藩主より、献金の功により、永取姓を賜り、以後永取姓を名乗る。
明治 一〇 年頃マグロ漁が盛んであった事が記され、磯立網もこの頃からである。明治の初年ブリの夜釣りが家室船から伝えられたという。
   三〇 年頃はヤズ漁が盛況、サンマ細も明治の中頃から導入されたようである。
   三五 中上長平翁は羽魚の流し網、マグロ流し網を考案する。
   三五 石油ランプが発明されたのは明治五年頃であるが、漁船用として勝本で使用されたのは明治三五年頃からである。
   三七 旧一 一六日勝本浦の漁船七量遭難して以後、日和見旗立制実施される。
   四〇 壱岐漁業組合発足(初代組合長白川助太郎)、当時は組合員に漁業者は少なく、壱岐の資本家が組合員で、漁業者は従業員であった。
   四一 鯨伏村も原周蔵氏が発起人となって、漁業組合を結成、認可される。
大正 初  大正の初期には、湯の本にシラスが豊漁、イリコと肥料に製造された。大正年間、薬用として沃度製造が盛んで、馬場崎に中上沃度製造、タンスに田口沃度工場があって、一時は盛況を極めた。
   九  勝本浦に始めて動力漁船が建造される(焼玉エンジン)鹿の下東和合丸。その頃の和船数約二三〇隻。大正の末期にイワシ網盛漁、船数三〇余隻、主として羽魚網業者。
昭和 元  この頃より壱岐ブリ飼付漁業会社により、ブリの飼付漁業が始まり、勝本の漁民、ブリの不漁に苦しむ。
   二  勝本の漁船集魚灯に石油ランプに代わり瓦斯ランブ普及する。
   三  勝本浦における動力船五一隻、無動力船二七〇隻、計三二一隻。
   四  九 壱岐ブリ飼付漁業のため、七里ヶ曽根荒廃して不漁が続き、勝本の漁民総代、飼付総会に出席して、漁民の窮状を訴え撤廃を求める。
   四  勝本の西部青年会員約三〇〇名、ブリ飼付全廃を叫んで、郷ノ浦に押しかけ、交渉しようとしたが、警察署員に阻止され、目的を達し得なかった。
   四  この飼付全廃を叫んで、生徒の登校拒否、納税不納を申し合わせる。
   五  九 香椎村漁業組合とは別に、勝本ブリ飼付漁業組合を結成する。組合長大久保平三郎、組合員四五九名、漁船数動力船六七隻。
   七  四 長島俊光、香椎村漁業組合長となる。
   七  七年―一三年まで下関船喜商店、油政商店と組んで、郡外の済州島、対馬の西泊港、山口県の江崎、島根県の大浜港まで飼付漁業に進出する。
   一〇 四 香椎村を勝本町に改称のため、香椎村漁業組合を、勝本町漁業組合に改称。
   一一 四 湯田の浜を埋め、約四〇〇坪を造成、一日一〇トンの製氷所と三〇トンの貯氷庫を建設して、漁業用の氷の安価供給をはかる。
   一一 六 勝本町漁業協同組合設立認可、組合長に立石幸吉氏就任。
   一二 一 大久保兼之助氏方二階を事務所に、棚を荷捌所として、共同販売事業を開始。
   一二 六 長崎県漁業組合連合会に加入。
   一二 一〇 以前の事務所敷地に、川崎立石両家より九六・二坪の土地を譲りうけ、事務所、会議室、荷捌所を建設する。
   一三 三 石油類の共同販売事業を企て、原田元右エ門所有の二五〇トン重油槽並びに石油貯蔵庫買取。
   一三 漁具及び船具の購買事業開始。
   一四 共同曵船を企て、県費補助をうけ、翌一四年四月第一勝漁丸進水。
   一五 飾飼付事業開所以来盛況が続き、漁民の生活を潤していたが、一五年不通となり中止した。
昭和 一六 八 勝本ブリ飼付組合は勝本町漁業組合と合併する。
   一六   勝本における動力船一八六隻、無動力船一七〇隻、計三五六隻。
   一九 五 国家総動員法により、勝本漁業組合は命令により解散する。
   一九 七 翼賛政治による国の協力機関として、勝本町通業会発足する。
   一九   役員は官選となり、会長に町長吉田覚太郎氏が就任。
   一九 鯨伏村漁業会設立、会長に原周蔵氏が就任。
   二一 この年から再びイワシ網復活し三五年まで続いた。
   二二 二 平畑福次郎勝本町漁業会長となる。
   二三 四 集魚灯も瓦斯ランプより電化され、バッテリーの充電施設が必要となり、仲折弁天崎に充電事業を開始した。(三二年四月閉鎖)
   二四 八 勝本町漁業協同組合設立認可、初代組合長平畑福次郎。
   二五 この頃より動力漁船の建造多くなる。
   二五 三 漁業組合施設用地として、仲折古敷浦防波堤内側一、二〇〇坪を埋め、造船所、上架施設、機械修理工場等の漁協施設用地となる。
   二五 八 立石福太郎、勝本漁業協同組合長となる。
   二六 第二勝漁丸(一五トン)進水する。
   二六 八 七里ヶ曽根に再びブリ飼付事業を試みたが不漁のため閉鎖した。
   二七 二 勝本漁協婦人部結成、部員約三〇〇名。(初代部長 阿田スガ)
   二七 李承晩ライン宣言。漁業範囲制約うける。
   二七 勝本漁業協同組合は、長崎県モデル漁協建設の指定をうける。
   二八 六月 勝本漁協青年部結成、部員約三五〇名。(初代部長 松尾政太郎)
      一日
   二八 勝本漁業協同組合、再建整備組合の指定をうける。
   二八 勝本漁協信用部開設される。
   二九 煮乾しの原料のイワシの抄い網好成績で、浦中煮干しで活気を呈する。
   二九 イワシの抄い網が始まり、集魚灯に発電機が始めて登場する。
   二九 漁協青年部機関誌漁青の友(四号よりすなどりに改名)発行される。
   二九 この年動力船二二一隻、無動力船一六二隻、計三八二隻(一〇年間に倍増)
   三〇 鹿の下川崎嘉一郎の敷地を譲り受け、翌年信用部事務所を新築する。
   三〇 この頃保戸船によるサンマタグリ鯛釣り、シヤ曳き、ボンボン等の漁法教わる。
   三〇 海上保安部勝本分室、乗越旧校舎跡に開室される。
   三〇 青年部たぐりにゴムエバを改良研究して、優良なる擬似餌を案出する。
   三〇 第二勝漁丸進水する。
   三〇 一〇 湯の本港湾、第一種漁港として指定をうける。
   三一 組合の内部組織を強化するため参事制を設ける。

   三一 信用部事務所建設する。
   三一 この頃からイカの自家加工が徐々に行われ、昭和五五年まで続いた。
   三一 漁業不振が強まる中で、勝本漁協先達漁船団結成する。
   三一 八 漁船急増のため第二荷捌所を、本浦製水所浜に設ける。
   三二 近代化資金による融資制度始まる。
   三二 壱岐郡各単協にて、毎年交互に漁礁を一〇〇個宛投入しているが、勝本漁協は単独で、漁礁建設事業として、五ヵ年計画で五〇〇個を投入する。
   三二 仲折にするめ加工場を、湯田にうに加工場を建設する。
   三二 一二 第一集荷場狭隘のため、地先一四二平方米埋立て拡張する。
   三三 鯛の豊漁が続いたが鮮度がわるく安価で、漁価の向上と、生産性の向上を計るため、鯛一本釣組合結成される。(初代会長 中村松義)
   三三 五 熊本長太郎、勝本漁業協同組合長となる。
   三三 この頃より勝本漁船に魚群探知機普及する。
   三四 この頃から勝本漁船デイゼル機関の導入据付け始まる。
   三四 漁業組合の用地として、弁天波止北側に五〇米の護岸を造り埋め立てる。
   三五 ナイロン製漁網及び綱導入される。
   三五 一部漁協婦人部に月給制採用されたが、四五年に廃止となる。
   三五 三 鯨伏漁業青年部結成される。(初代部長 磯田茂)
   三五 この頃の動力船の隻数三三〇隻、平均馬力六・八馬力。
   三五 水産物改善事業として、水産製品倉庫を建設した。画積六〇坪。
   三六 以東底曳網の法案化に反対猛運動を起こし、これを阻止した。
   三六 この頃漁船にトランシーバーが装備されるようになり、急速に普及する。
   三六 勝本の船を湯の本に分散計画を樹て之を実施する。
   三七 三月 海上保安部勝本分室廃止となる。
      二一日
   三八 一 勝本漁業協同組合、鯨伏漁業協同組合、合併する。(正組合員一〇八名加入)
   三八 三 第一資材倉庫木造平家建三二坪建設。
   三九 湯の本漁港整備計画着工される。(第三次漁港整備計画による)
   三九 指導船第五勝漁丸進水、一九・九トン、二〇馬力。設備としては、魚群探知機、ロラン無線機、発電機等を設備する。
   三九 漁船の急増と大型化に伴い、扱い高も増大、配油に混雑を来すようになり、大型給油船を建造する。鉄鋼船一〇・九トン、二二馬力、計器一式。
   三九 全ブリ一本釣り組合結成される。当初は八支部であったが、四五年一六支部の大きな団体となる。(初代会長 大久保巌)
   四〇 三月 突風災害により、動力船数隻沈没、四〇余隻大破、又は損傷をうける。
      一七日
   四〇 手長島定置網漁業に着手、七年間続行されたが、欠損金を出して中止される。
   四〇 漁船の急増と巻落し操業の餌料保管施設又は、短期畜養施設 生簀の餌料確保のため、湯田埋立地に三〇トン冷蔵庫建設する。
   四〇 一〇月 従来の漁祭りを港祭りとして諸行事を盛大に行う。
      一五日 
   四一 昭和三〇年頃から、イルカの被害、漁民間に間題となり、一〇年間いろいろと手を尽くし失敗したが、本年イルカ追込船団結成される。
   四一 五 勝本浦にスピーカーを取り付け、組合の放送事項等をその都度漁民に伝えるため、有線放送施設を設置する。
   四一 七 捲き落し組合設立、三船団三六隻参加。(初代組合長 小畑清)
   四一 湯の本漁港整備計画により、埋立地に勝本漁協湯の本支所設置。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社