天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史124

勝本浦郷土史124

   八日
   五五 五五年イルカ追込捕獲数三回、一二六頭。
   五五 漁協は事務合理化のため、コンピューターを導入。
   五五 五 長崎地裁において、ケイトを懲役六カ月、執行猶予三年の判決あり。
   五五 一二 勝本漁協は、勝本漁業史二、〇〇〇部を刊行する。
   五六 一 冷蔵庫一三〇トン完成、事業費九、〇五八千円。
   五六 四月迄 五六年度イルカ追込捕獲数六回、一七九頭。
   五六 六 漁業振興対策協議会の協議に基づき、筒方に平目養殖事業を実施する、事業費約二、〇〇〇万円。
   五六 一二 魚函倉庫二六九平方米建設。
   五七 二 米国自然保護団体シュベート号、勝本のイルカ捕獲妨害のため来勝するとの報に、漁民、警察、海上保安部、県水産部等、騒然とする。
   五七 三月 米国自然保護団体長ワトソン来勝、町役場において郡内外報道機関大勢来勝して、騒然たる中に、県水産部次長、組合代表者、町及び議会代表者により、イルカ問題について話し合いがなされた。
      八日  
   五七 五 第十八勝漁丸(一九トン)進水。
   五七 五七年度イルカ追込捕獲数三回、一、八八〇頭。
   五八 五八年イルカ追込捕獲数は四回で二、九二四頭。
   五八 八 タイ稚魚五〇、〇〇〇匹、平目一、〇〇〇匹、湯の本湾内に放流。
   五九 五九年度イルカ追込捕獲致三回、二〇〇頭。
   五九 五 小畑清勝本漁業協同組合長となる。
   五九 八 漁村後継者対策、第一回(浜辺の集い)実施。
   五九 九 壱岐郡栽培漁業推進協議会発足。
   六〇 三 仲折外港に第二荷捌所建設、平家建三七八平方米。
   六〇 六〇年度イルカ追込捕獲数二回、五九頭。
   六〇 一一 音玉事件発生。(小佐々漁協中型まき網船)
   六一 三 第二製氷所完成、製造能力日産四五トン、鉄筋コンクリート三階建、坪数二八六平方米、事業費一億一、一〇〇万円、第一製氷所を廃止して、第二製氷所が第一となり、新設が第二製氷所となる。
   六一 六一年度イルカ追込捕獲数二回、一五九頭。
   六一 九 アミ撒餌事件発生。
   六二 三 湯の本埋立地に漁網倉庫建設。
   六二 四 筒方における平目養殖事業、採算とれず中原組に委譲。
   六二 九 長崎県燭光問題協議会発足。
平成 元  一〇 七里ヶ曽根海底漁場調査。
   元  一一 従来セリ市は日曜日を休日としていたが、土曜日を休みとする。
   二  三 漁協婦人部水産加工施設完成。
   三  一 組合にて活魚販売を計画、活魚水槽施設を造る。
   三  三 間懸案であった串山給油施設完成、仲折より串山に移す。二〇〇K四基、三〇K一基。
   三  正月頃より三月末頃まで、久し振りブリ又はマグロの大漁あり。
   三  一〇 地先型増養殖場、天ヶ原地先にて二ヵ年継続継続にて着工。
   四  二 信用部全国オンライン開局。
   四  三 漁場監視船、第十九勝漁丸進水。
   四  湯の本荷捌所を新地に改築する。
   四  四 壱岐漁協統合信用部加入。
   五  二 久し振りブリの大漁あり。
   五  四 米国人ベンホワイト、串山イルカ網切断。
   六  六 湯の本お魚センター開店。
   六  一〇 第二回壱岐郡お魚祭り開催。
   七  一一 後継者ねるとんツアー開催。
   七  近年続く不漁のため、漁業をやめて、職業一時他に稼働する者多し。

第十九章 イルカ騒動
第一節 イルカによる被害

 

勝本港を中心にして起きた、勝本漁民の積年のイルカ捕獲は、国の内外の問題にまで発展して、日本の津々浦々にまでイルカの勝本の名を有名にならしめた。魚の資源が豊富であった時代では、イルカの被害も直接強く漁民としても感じなかったのであるが、海の魚は無限と考えられたものが、海水の汚染と自然界の変異と濫獲によって、あらゆる魚が減少し厳しくなると、イルカのために自分達の生活がおびやかされる事は、漁民にとって堪え難い事であり、害獣と思うのも当然の事である。又イルカは食用として他の魚に比べて価値もなく、獲る者も少ないことから、他の魚族の減少に反して、繁殖した事も事実である。
 勝本でイルカの被害が問題となり始めたのは、昭和三〇年頃からであるが、漁業組合の銛竿、又は銛銃に対する、又捕獲経費に対する補助の要請が毎年の如く、町及び議会に要望があり、町もその要望に応えて来たのであるが、その割に実効がなく、残念ではあるが、漁協も諦め気味であった。イルカの食害については省略するが、こうした食害だけでなく、沿岸漁民の敵とするところは、何千頭と群をなして、釣れている魚を追い散らす海のギャングでもある。
 弱肉強食は自然界の当然の事ではあるが、折角魳が釣れてよろこんでいても、イルカが来遊すると他の魚は海底に逃げてしまうのである。今日はと期待して出漁する零細な一本釣漁業者は、昨日も今日もイルカに荒らされて、空しく帰る漁業者のイルカに対する憤怒の気持ちは、漁師以外の者の計り知れないものがある。
 今日はイルカが廻遊して来ないように、祈る気持ちでいつも出漁するのである。

勝本漁協イルカ捕獲にあらゆる方策をつくす
 イルカを捕獲するについては、古くから銛で突いて取る方法だけが踏襲されてきたが、昭和三一年銛銃がよいとの事で、漁協では七丁購入して使用したが、船が揺れて照準が合わず成果は揚がらなかった。
 漁協としても年間二頭か三頭か捕獲してもどうにもならず、思い余って捕獲した者には一頭につき、当初は三千円の奨励金を出したが、その額も五千円となり、町よりも漁協と同額の五千円が補助され、一頭に一万円の捕獲奨励金が出るようになった。又突棒等も多く購入して、極力捕獲奨励したが効力はあがらず、年に一頭も捕獲されない年も続いた。半ば諦め気味であったが、イルカの害に毎日悲惨な思いをする漁民の声に、組合の幹部もあらゆる方法を検討した。
 昭和四〇年十月イルカ追込漁法研修のため、静岡県伊東市川奈の富戸漁場に人員を派遣して研修、富戸漁協がイルカ追い込みに使用している強力発音器が効果あるというので、早速購入して四一年十月イルカ追込船団を結成して追い込みを試みたが、この時も追い込む事は出来なかった。又四二年四月には、海上自衛隊佐世保総監部に要請して、機銃掃射を実施したが、イルカを発見することが出来なかった。
 昭和四三年一月二六日例の如く出漁したが、イルカの廻遊のため漁が出来ずに、出漁中の鰤釣漁船全船が漁を諦め、漁場より直接郷ノ浦港に直航して、鰤釣組合役員を先頭に、壱岐支庁に漁着のまま、イルカ対策について陳情を行ったりした。又昭和四三年二月岩手県赤浜漁協より、イルカ猟銃指導者として、川口組合長を招いて銃の実射等の説明会を催したり、猟銃取扱講習会を県警によって開催した。
 四三年には県の補助を得て、イルカ駆除の散弾銃十五丁が購入されたが、船が揺れて照準を合わせる事ができず、又イルカが水面に姿を見せるのは瞬間であり、イルカに命中させる事は困難で、これも又成果はあがらなかった。斯うしてイルカ追い込みに再三失敗したため、昭和四三年六月にはイルカ追込船団を解散して、新たにイルカ捕獲船団を結成した。
 このように猟銃による捕獲も実効はあがらず、空しく二、三年は過ぎた四五年、国、県補助で、イルカ捕獲船勝漁丸(十九頓)小型補鯨砲装置を建造、約二〇日間捕鯨砲の指導をうけ、専用捕獲船として使用されたが、昭和四九年六月まで五ヵ年間に、僅か二〇頭のイルカを捕獲したに過ぎない。そうしている間に捕鯨砲の銛が使用不可能となり、勝漁丸による捕鯨船の操業は打ち切られた。斯うしてあらゆる方策を講じて、イルカの捕獲に執念を続けてきたが効果があがらず、昭和五〇年三月万策つきたおもいで、猟銃五丁と銛銃六〇本購入して、もっぱらイルカの追い払いを主体とする、対策を取らざるを得なくなったのであった。それでも昭和五一年四月県水産部の斡旋で、大

目流し網による捕獲の夢を追い求めて試験操業されたが、利口なイルカが網にかかる筈もなく、これも不成功に終わった。
 これまで漁業史と筆者の記録を参考にして記して来たが、これまで組合の精根尽くしての努力は、実に涙ぐましい程であったが、何れも不成功に終わりながらも、捕獲に執念を燃やして、根気強くあれで出来ねばこれにてと、二〇数年イルカ捕獲に取り組んで努力して来たのである。これは漁業組合だけでなく、県としても、町としても組合に同調して精力的に対応がなされたのである。昭和五〇年十月町議会水産商工委員会は、和歌山県太地でイルカの追い込みに実績を挙げている事を知り、調査研修に行き、その報告に基づいて、翌五一年三月太地漁協より、追い込み技術者数名を招聘して、実習指導をうけ、四月十二日始めて十二頭を追い込み、更に二二日、四二頭追い込みに成功したのである。それまであらゆる方法を施したが、不成功に終わり、半ば諦めていただけに、漁民の又組合の悲願が、大量追い込みに成功したのである。漁民も漁協幹部のよろこびに包まれた事は当然であった。
 長い間イルカにかけた捕獲の夢が現実のものとなり、見通しと自信がついて翌年度の大量捕獲に移行していったのである。

大量の追い込みに成功したが処理に四苦八苦する
 五二年度の追い込みにおいては、四回の追い込みに対して九二四頭を追いこんだのである。ここに来て始めて今日まで考えていなかった、大量捕獲の場合の処理方法という厚い壁にぶつかったのである。それまで何十頭の処理については、食料として又水族館や市場等に売却して処理したが、何百頭となると処分に困窮した。結局はおもりをつけて海中投棄したり、島に埋めたりしたのであるが、この海中投棄も海上危険防止法や海上汚染法にふれて、海上保安部より注意をうける等、沖合つまり日本海の真っ只中あたりまで運ばないと、投棄できないという現実的に不可能な事であった。
 油脂会社に無料提供の相談もできたが、運賃は組合負担のため、運賃がかさみ重圧となり、丸のまま送っても県の補助的対照にならない。
 獲るのに長い間苦労したが、今度は多量獲れ過ぎて、その処理により以上の苦労をしなければならなかった。五二年三月壱岐漁民一丸となったイルカ対策協議会が結集された。このような状況の中で一単協のみでは、国県に呼びかけるにしても、より大きな力の結集が必要であった。
 しかしイルカを多く捕獲すればする程、赤字がかさむ一方であった。
 郡の協議会発足後は、イルカに関する問題は郡の協議会が担当した。
 しかし追い込みの主導権は、勝本の漁協の捕獲船団にあったようである。イルカの被害に長い間苦しみ、捕獲に勇んだ組合員は、漁業組合役員等の大量処理に頭を抱えていても、組合員は一頭でも余計に多く追い込む事を考えて調製はできず、五四年には短期畜養計画を油目瀬戸につくったり、イルカ解体処理船を建造したりして、砕体して送る等あらゆる事を考えて対処した。又粉末にして肥料とする事等も研究されたが、実施までに至らなかった。しかし業者間では已に試験済みで、他の魚を粉にして肥科に製造していたのである。捕獲に苦労、獲れ過ぎて処理に苦労、外からの批判に苦労、苦労の連続であった。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社