天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史

勝本浦郷土史106

勝本浦郷土史106 飼付の全廃を呼んでゼネストを行う このような事情から漁業者の子弟は、同盟休校及び税の不納を短期間であったが実施を余儀なくされた。漁船は連日出通せず、不平不満やり方なく漁民感情はその極に達した。その頃都会より帰勝していた血気の青年三名は、勝本浦の現状を見るに忍びず、勝本の大勢の青年を動員して、蓆旗を押し立て、飼付全廃をスローガンに、勝本浦中を労働歌を歌い叫んで浦中を練り歩いて示威...

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勝本浦郷土史105

勝本浦郷土史105 斯くして、勝本漁業協同組合が設立されるや共同販売事業のための、荷捌所及び、組合事務所の建設、十三年には船具漁具類の購買事業、石油類の共同販売事業、スルメの共同加工事業、十四年には、石油類購買部事務所の建設、水産倉庫の建設等、次々と組合員の要望に応えて、設備を充実していった。 又、昭和十三年には、運搬船の建造を計画した、その頃は夏いか釣りの、無動力船も数多くいた、その和船を魚場ま...

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勝本浦郷土史104

勝本浦郷土史104隊のような存在と見られたのであろう。しかし船の性能、乗組員は優秀で、イカの取扱いも、他県の大型船をしのぎ、鮮度のよいイカを多量に水揚げするので、何処の港でも評判はよかったのである。特殊船の収入は勝本漁民の羨望する事になり、十九トン型の特殊船は次々と増えていった。そして夏冬操業するようになった。四七年には出漁船数も増加して、漁協役職員も入漁交渉で忙しくなり、又積極的に奔走した。漁港...

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勝本浦郷土史103

勝本浦郷土史103隊のような存在と見られたのであろう。しかし船の性能、乗組員は優秀で、イカの取扱いも、他県の大型船をしのぎ、鮮度のよいイカを多量に水揚げするので、何処の港でも評判はよかったのである。特殊船の収入は勝本漁民の羨望する事になり、十九トン型の特殊船は次々と増えていった。そして夏冬操業するようになった。四七年には出漁船数も増加して、漁協役職員も入漁交渉で忙しくなり、又積極的に奔走した。漁港...

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勝本浦郷土史102

勝本浦郷土史102減少しているが、売値の高騰によって、数字的には保たれているのであろう。特に近年は、漁不漁の差が、個人別に大きく生じつつある事は、設備投資にも原因もあるが、魚種の減少特にブリの減少した事に左右され、憂慮すべき事には変わりはない。第十一節 網漁業 羽魚網 漁業には大きく分けて網漁法と、釣漁法に分類されようが、勝本漁民によって、昔より行われている網漁業には、羽魚網、イワシ網、サンマ網、...

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勝本浦郷土史101

勝本浦郷土史101昭和五六年頃まで、盛況を続けていたブリ漁も近年とみに少なくなり、漁民を失望させている。このように漁民を取り巻く諸条件は憂慮され、漁業の盛衰と一体不可分の関係にある、信用部事業も貯金の伸びも次第に鈍化の傾向にある。こうした諸状勢の中に信用部は、使命を再認識して、今後経営の合理化につとめてゆかねばならないであろう。第八節 共同販売事業 組合設立と同時に、漁協の主幹事業である、共同販売...

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勝本浦郷土史100

勝本浦郷土史100あった。従来の定款を変更して、役員の定款を理事五名を七名とし、任期を理事三年、監事二年であったのを、理事監事共に二年に変更した。このような経過で、勝本町漁業協同組合は発足し、現在に至っている。 昭和五年九月、香椎村漁業組合とは、別に、県の指導によって、勝本ブリ飼付組合が漁民によって、始めて創立せられ、組合の基礎が出来てより、十九年の間、幾多の曲折を経て、昭和二四年八月、再び勝本漁...

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勝本浦郷土史99

勝本浦郷土史99七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立 県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。 ...

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勝本浦郷土史98

勝本浦郷土史98 運営に悩んでいた。当組合も、資金の運営に困り、漁業者の水揚げ代金の支払いにも支障を来すようになった。従って、借入金に頼らざるを得なくなり、県信連、十八銀行、九州相互銀行、勝本農協等に依頼したが、各機関共に、組合の経営状態には警戒して貸付を渋り、申し訳的に僅かな金額しか貸さなかった。その当時、農協信用部は、三〇年の歴史を持っていた。貯金残高も郡内では一位であった。農協信用部がこのよ...

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勝本浦郷土史97

勝本浦郷土史97七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立 県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。 ...

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勝本浦郷土史96

勝本浦郷土史96 結して、七里ヶ曽根に、ブリの飼付をやるというような、智恵というか、対抗手段は考えられなかったのであろうか、只実力行動によって、飼付全廃を叫んで、児童の登校拒否、税の不納や、町内をゼネスト等の、示威行動をした。 反面実力者に頼り、支庁、県庁、飼付会社に、勝本の漁民の窮状を強く訴えたが、県としては一度許可した事業である、勝本漁民の苦しみは十分察知しながらも、簡単に全廃するのは不可能と...

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勝本浦郷土史95

勝本浦郷土史95 受けた大来外務大臣は、これまでのように諸外国の批判に単に頭を下げるのでなく、我が国の立場を強く主張して、イメージダウンにならない様に防止を計りたいと答えている。 こうした記事は当時の新聞を切り抜いた一部を掲載したに過ぎないが、当時は毎日見る新聞に、この小さい壱岐のイルカの記事が載っていない日はない程に、イルカに対する世の中の関心の高まりを見せたものである。日本人の多くはイルカの捕...

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勝本浦郷土史94

勝本浦郷土史94 四一 昭和三〇年頃から、イルカの被害、漁民間に間題となり、一〇年間いろいろと手を尽くし失敗したが、本年イルカ追込船団結成される。 四一 五 勝本浦にスピーカーを取り付け、組合の放送事項等をその都度漁民に伝えるため、有線放送施設を設置する。 四一 七 捲き落し組合設立、三船団三六隻参加。(初代組合長 小畑清) 四一 湯の本漁港整備計画により、埋立地に勝本漁協湯の本支所設置。 四一 ...

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勝本浦郷土史93

勝本浦郷土史93 四一 昭和三〇年頃から、イルカの被害、漁民間に間題となり、一〇年間いろいろと手を尽くし失敗したが、本年イルカ追込船団結成される。 四一 五 勝本浦にスピーカーを取り付け、組合の放送事項等をその都度漁民に伝えるため、有線放送施設を設置する。 四一 七 捲き落し組合設立、三船団三六隻参加。(初代組合長 小畑清) 四一 湯の本漁港整備計画により、埋立地に勝本漁協湯の本支所設置。 四一 ...

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勝本浦郷土史92

勝本浦郷土史92 二九 イワシの抄い網が始まり、集魚灯に発電機が始めて登場する。 二九 漁協青年部機関誌漁青の友(四号よりすなどりに改名)発行される。 二九 この年動力船二二一隻、無動力船一六二隻、計三八二隻(一〇年間に倍増) 三〇 鹿の下川崎嘉一郎の敷地を譲り受け、翌年信用部事務所を新築する。 三〇 この頃保戸船によるサンマタグリ鯛釣り、シヤ曳き、ボンボン等の漁法教わる。 三〇 海上保安部勝本分...

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